デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

映画『白蛇:縁起』をより楽しむために:『白蛇伝』をもうちょっと知る

昨年日本で公開されたアニメーション映画『白蛇:縁起』のBlu-ray、DVDの発売が今月5/28に発売予定だ。今年1月に全国のイオンシネマで再上映されたりと、映画館での人気も根強い様子だが、平日・日中の上映時間だと厳しい向きもあっただろう。ディスクでなくてもU-NEXTで配信中なので、見逃した向きには是非観てもらいたい。

今回はそんな『白蛇:縁起』の世界のベースになった中国の代表的な物語、『白蛇伝』を知るための話をしておきたい。

もうちょっと知る『白蛇伝』

『白蛇伝』については公式がツイッターで発信していた伝承・用語解説が充実している上に、Wikipediaも日本語版・中国版共に詳細なので、まずはそちらをあたっておけば全く問題ない。既に『白蛇伝』の前日譚として話を膨らませた『白蛇:縁起』の凄さ、みたいな記事も見かけたのでチェックしている向きも多いと思う。

ただやはりこれらの情報はダイジェスト化や話の旨味になる部分が省略されている様子なので、一度ちゃんと楽しみながら情報収集しておくと良いと思う。日本での『白蛇伝』の人気・知名度のせいか、そもそも日本で『白蛇伝』に関する文献・書籍は驚くほど見かけない。アニメーション映画の古典として名高い東映版が配信でも観られるが、興味のきっかけとしては限られるのが現状だろう。中国の実写ドラマ・映画といったところも同様だ。

白蛇伝

白蛇伝

  • 森繁久彌
Amazon

だからこそ改めて物語を追っておこうというわけだ。一度知れば東映版、『白蛇:縁起』に限らず中国娯楽作品に触れる際にも大いに役に立つはずだ。『白蛇伝』の情報はネット上にも案外少ないので、手元に参照できれば何かと心強い。何より既に中国で公開済の『2』が日本公開されたときの楽しみの一助になるのではないだろうか。

絵本で読む『白蛇伝』

絵本の題材としても日本で『白蛇伝』は正直マイナーかと思う。『白蛇:縁起』本編の水墨画で描かれたエンドロール、あの箇所がまさに『白蛇伝』原作ダイジェストなのだが、それすら日本ではあまり知識として定着していない気がする。そこで公式ツイッターで公開されていた読み聞かせ動画、あの動画プラスワン、くらいの感覚で気軽に『白蛇伝』を知るのであればちょうど良い絵本がある。『白蛇伝  詩の絵本 中国編 2』(絵:施昌秀 文:甲斐 勝二 海鳥社)だ。

中身は大人向けの絵本といった趣だ。絵本にしては漢字が多いと思う(ふりがな有)。これを読むと『白蛇伝』の基本の流れ、がよくわかる。白(蛇)がメチャクチャ強くて、青(蛇)も強くて、妖怪が恐れられている。アレンジされた箇所ならば、宣(許宣)が終始疑り深いのが印象的。妖怪だってなんだって構わない! という主人公然とした性格ではなく、情けなくすら感じる。実は『白蛇:縁起』を初めて観たときこれを思い出して苦笑してしまった。とにかくやたらカッコ悪い。人間の限界をまざまざと感じるのも原作、『白蛇伝』ならではだ。公式の”原作紹介”はライトに仕上げていることもわかる。

『白蛇伝』の成立を辿る

前述の通り日本語で読める『白蛇伝』に関する書籍は驚くほど少ない。熱心な専門家・ライターすら「誰かいるのだろうか?」という状況だ。『三国志』を代表格とした中国の古典は今だ日本で大人気なのに、これは知名度なのか国民性なのか。そんな中で、『白蛇伝』の物語から成立までをコンパクトに知ることができるのが『蛇女の伝説 「白蛇伝」を追って東へ西へ 』(著:南條竹則 平凡社新書) 。

著者は”読書録”などと謙遜の様子だが、これほど『白蛇伝』を研究している書籍が現行見当たらないのが残念だ。入手しやすいと思うが、絶版なのが惜しい。『白蛇伝』のいろんな劇や映画のベースとなっている『雷峰塔伝奇』の紹介から始まって(前述の絵本もこの内容に即している。『2』に関係ありそうな題名)、一体いかにして『白蛇伝』が形作られたか、そのルーツを辿る試みが興味深い。ギリシア神話にインドの類話とスケールの大きさに心打たれる。これらを紐解けば世界中のエンターテイメントが楽しめるのでは、というきっかけにもなって欲しい一冊だ。
余談だが著者の人となりから、この作品を観てそうなのでぜひとも『白蛇:縁起』の感想、解説など聞いてみたいと思った。実写のドラマや映画も増えているので注目されて欲しい。

こんなところから見識を深めつつ『白蛇:縁起』や続編(早く観たい)の世界に浸ってみてはどうだろうか。


(2022/5追記)などと書いてたら続編『白蛇2: 青蛇興起』は既にNetflixで配信されているじゃないか⋯ああこのアンテナの弱さ。恥ずかしー。U-NEXTじゃないんだね。劇場公開待たずに観て感想書いちゃおうかしら。キャスト云々よりとにかく続きが気になる方もどうぞ。
https://www.netflix.com/jp/title/81504698



(2022/6追記)『白蛇2:青蛇興起』の感想はこちら:

『ガールズ&パンツァー最終章』第3話の感想 Blu-ray発売に寄せて

12/24に『ガールズ&パンツァー最終章』第3話OVAのBlu-rayが発売されたので感想です。セル配信も同時で、レンタル配信はまだ。公開からディスク発売が年を跨ぐより心証はよいです。

継続戦の本番前に

さんざこんなヤツ出るだろ、いるだろと話題になり続けた新キャラを引っさげて継続高校が準決勝の相手です。『劇場版』の頃から人気の高い学校だったようなので、軽めに元ネタを楽しむアイテムを並べるだけにします。本番どころか第4話であっさり決着だったら? それはそれで面白いじゃないの。大洗女子敗退でね。『最終章』後半が俄然楽しみになりそう。私もしつこいな。

※『カレワラ』にはカンテレに纏わる話が出てきます。準決勝試合後はカンテレの演奏会か、誰かの涙か。

映像特典について

まず戦車講座について。おーいその戦車を紹介するなら本編で出してよ、と言いたくなりました。浜名湖に眠る虎の子。

それにしてもTV版、『劇場版』の過去映像を観ると作品の進化をつくづく感じます。当時これでも十分クオリティが高いと思っていた映像がチャチに見えます。ただ、この点を制作スタッフに感謝する一方で、私が「面白かったな」と思い出すカットや演出はTV版、アンツィオOVAなのだなあ。新しくなるにつれて、戦車戦の見せ場が映像のスピード感一辺倒になりつつあるのが残念です。

今回のスタッフコメンタリーは第4話以降の話題が結構出てくるので、アレコレ展開予想をしたい向き、公開まで予告編を観ない向きは聞かない方がよいかもしれません。サラッと「4話(今後)はこうなる」、みたいな話をしちゃっています。それ以外の話については、正直「そういうのは本編でちゃんと表現してよ」という小ネタや設定がチラホラ。例えば優花里の操縦は、もっとわかりやすく荒々しくてよかったかな。それからやはり、みほ(あんこうチーム)関係は「何気ないように見えるけど実は凄いんだよ、ほらここの判断は、対応は」という話が耳につきます。さすがにこういう描写や(本編外とはいえ)フォローが続くと、超人ぶりとご都合感で冷めてくる。何かこう、人間味を加えた方が人物とドラマ両方に新鮮さと意外性をもたらして良いように私は思います。素人の妄言でしょうかね。


映像特典OVAの内容は残念ですが期待外れ。はあ、この世界観を広げるんですか、こういうのを見せたいのかあ、というところ。さすがに戦車道ありきの世界に興味を抱いてこの作品を観たわけで、「もう、こっち(制作側)が何やってもついてくるだろう」とまで思われるのはね。箸休めのつもりなのかもしれませんが、本編公開にこれだけ間隔が空いたら箸休めも何もあったものではないです。

もはやあんこうチームの面々がいつの間にか馬を乗りこなしたってツッコミませんよ。そりゃ、あの身体能力と動体視力ならね。『最終章』第1話前半もそんな感じでしたし。今更手間取られても困る。もしかして第4話以降、馬が登場するのかしら。

あと褐色キャラに何か思い入れがあるのでしょうか。私にはいつものハンコ顔、という印象以上何もありませんでしたが⋯。実は自動車部やお銀だった、というわけでもなく。

ただEDのノリは好きか嫌いかでいうと、好きですね。ガルパンは歌の親和性が高いので、もっと劇中で歌うか、ミュージカルやっていいですよ。人が集まるのはまだまだ厳しいのでしょうが、キャストも人数含め揃ってますから。他作品の話題で目にしましたが、ガルパンでこそやるべきでは。サンダースなんて歌いまくって欲しいです。と、あっさり本編で片付けられた贔屓の名前を出しながらロバート・ショウ合唱団を聴きつつ。


『ガールズ&パンツァー最終章』第3話の感想補足

第3話の感想や今後については既に下記リンクで書いており、今回は簡単に。

今回改めて、作中で車輌や試合会場の位置関係を示す画、あるいは俯瞰する画が目立ちました。後半の継続戦は位置関係が伏線になるのかまだわかりませんが、知波単戦は映像的魅力としてもあまり寄与していなかったように思います。例えば私の好きな「偏差射撃で一点照準!」の場面も一斉射撃のカットは俯瞰になりますが、果たして入れる必要あったのかと今だ疑問です。この辺りが、第3話が何となく冴えなく映る要因の一つではないでしょうか。


今後も戦車戦中心で話が進んでいくようなので、まさかその魅力まで減退するとはハナから考えたくないものの⋯どうなるか早く第4話が観たいです。

映画『白蛇:縁起』の感想(字幕版)

7/30公開の映画『白蛇:縁起』(字幕版)を観たが面白い。物語の核心に触れるようなネタバレなしで感想を書いておきたい。

と書いたものの公式サイトにある通り、元々中国では2019年公開とのことで、記事のタイミングといい遅ればせながらだ。このご時世今更というところだろう。それにしても、ここ数年意識して劇場公開のアニメーション映画を観てきた中でようやくアタリと言える作品に巡り会った。

※画像をタッチ・クリックすると予告編(YouTube)が再生できます。



先ず以て本作は題材とその表現が良い。妖怪や五行といった要素は、昨今のエンターテイメント作品でも顔馴染みのまさに古典であり、それを謂わば”本場”が最新の技術で昇華していることに感服した。日本のアニメ映画『白蛇伝』から興味が湧いた向きも少なくないだろうが、どちらかというと『山海経』に登場する妖怪、特に動物モチーフで頭が複数ある妖怪などに親しんでいた方が思いを馳せることだろう。そこに現代的なアレンジが加わって、鮮烈さが加味されている。実写でも度々題材になっていたが、実写だとCGや合成の出来によっては作り物感があって気になる要素が、アニメで表現すると違和感ないことも大きい。

ストーリーはラブストーリーと大々的に宣伝している通り、子供向きで収まらない。ここも輪廻転生や不老不死といった、今だ人気を誇る要素が軸だ。いや始祖はこういうものだ、と書くべきか。そこに男女の出会いから過去の経緯、そして⋯という展開をきっちり楽しませてくれる。通り一遍なハッピーエンドでもないし、途中マスコットキャラのような存在が妙に媚を売ることもない。自然な見せ方が本作の真骨頂なのだ。

子供向きで収まらないと書いたが、登場人物が醸し出す色気ですら、キャラクターを立てるための表現手段として有効活用している。これは無駄なエロ、ではない。アニメのラブシーンで艶っぽいと感じたのは久々だ。

映像面では、水墨画のような処理や色彩感覚にも惹かれる。都市部の建物や自然の背景に至っては眼福の一言。ただ刺々しい、毒々しいのではなく、情緒がある。背景を眺めるように観るだけでも楽しめる。話題になっている通り、中国や台湾、日本の過去作からのオマージュもある。これを作品の構成要素として活かしていて、シーンが浮足立っていないのがまた素晴らしい。宝青坊の様子など、「あ、こういうの見たことある」という印象を受ける一方で、歴史的な造りの美観を損ねず、ファンタジーとして機能性を加えることにも抜かりがない。アクションシーンも画面や音響の効果が激しすぎてくたびれることがない。それでいて、前述の本場らしさ全開の攻防に痺れる。

※2019年公開のため、既に中国版サントラはSpotifyで配信されている。

今回字幕版を観たのだが、中国語(外国語)だからこそ、音楽にお話に、字幕による台詞に集中でき、想像力を働かせることができたのかな、と感じた。不肖ながら中国語は解らないが、この異国風情は最初に字幕版を観てよかった。音楽がこれまた画との調和が良い。後々観られるなら字幕版がまた観たいし、オススメしたい。字幕版の公開期間が短いのが惜しい。もちろん吹替版も観て比べてみたいところだ。

最後に本編の話に戻るが、名残惜しいがしょうがないな、彼女たちはこれからどうなるのかな⋯という心地良い余韻から、最後はやってくれたなという印象だ。できればエンドロールで足早に席を立たないように。詳しくは書かないが、2段仕掛けである(2021/8追記:吹替版なら3段仕掛けかな)。日本公開以前から知ってる向きも少なくないだろうが、次も恋愛物でお願いします。ありますように、か。

(2022/6追記)『白蛇2:青蛇興起』の感想はこちら:


映画『トゥルーノース』に寄せて

アニメ映画『トゥルーノース』(公式サイト)が上映されていたので感想です。ネタバレは一応ありですが、詳細なあらすじ列挙ではなく、観ていればわかる程度の内容です。題材もさることながら、アニメーション作品であること、音楽にも期待して。都内で上映中なのは6/24時点で1館のみ(TOHOシネマズシャンテ)。私が鑑賞したときは座席間隔を空けての上映でした。

※東京国際映画祭のときの予告編。画像をタッチ・クリックすると動画(YouTube)が再生できます。

ちなみにTOHOシネマズシャンテのスクリーン3は傾斜が少ない座席配置なので、人の頭がスクリーンに被るのが気になる方はなるべく後ろの座席を確保するとよいかと。

作品と北朝鮮のこと

まず本作を楽しむために北朝鮮に纏わる知識がどれくらい必要かと言われたら、さほどハードルが高くはないと答えたい。私の体感では、「日常で北朝鮮にまつわる種々のニュースを知り、TV番組の特集をごくたまに観る程度」で十分楽しめるのではないか。それらの情報と推測しうる事態が本作を構成していると思う。

北朝鮮を知るに、今はネットを検索すれば”公式”サイトもある。だが、本作を楽しむに肩肘張って知識を収集することを強制はしない。まず日本で出版されている北朝鮮関連の書籍をちょっとでも漁れば一層興味深い、と書いておこう。

それには北朝鮮の動向もさることながら、北朝鮮の日常生活、物品に関する”ネタ”を仕入れておけば損はないだろう。観光を端初にそれらを読み解く書籍に面白いものが揃っている。現地を知るに、日本で行動しうる数少ない手段が観光とも言える。

入手しやすく読みやすい本で、バラエティ番組にも出演している宮塚利雄の本がコンパクトにまとまっている。90年代~2010年代の北朝鮮を取り扱っており、本作が如何によく再現しているかがわかる。

『誰も書けなかった北朝鮮ツアー報告』(小学館文庫)は90年代初期に北朝鮮を訪れた際の旅行記だ。朝鮮語・韓国語だけでなく、朝鮮半島の事情に通暁している著者の現地の住人とのやり取りは痛快だ。朝鮮半島の歴史紹介も適宜挿入されており、大変ためになる。食べ物の話題も多い。例えば本作に黒豆らしき豆類の入った粥が登場したが(主人公が母親に食べさせようとしたが拒否されたもの)、あれは白米が不足しているからという理由だけでなく、れっきとした朝鮮半島の料理だということがわかる。あの場面は主人公があれだけの食材をあの身分で揃えたことが驚愕なのだ。

このスタンスで紹介する北朝鮮・最新版という趣で、『朝鮮よいとこ一度はおいで!: グッズが語る北朝鮮の現実』(風土デザイン研究所)がある。基本ひとつの見開きページにつき一つの解説である。こちらには「政治犯収容所」の話題もある。また現在の話ではないが、著者が韓国で留学時代に、持っている日本製ラジオで北朝鮮の放送が聞けると自慢げに話したら派出所に連行された話が出てくる。本作の序盤で思い当たる節がないだろうか。韓国と北朝鮮という観点からも興味が尽きない。


最後に日本以外の諸外国と北朝鮮という視野から提言している書籍を紹介しておく。『北朝鮮と観光』(著:礒﨑敦仁 毎日新聞出版)である。序章の「北朝鮮のイメージは世界共通ではない」からして、本作を深く考えるきっかけになるのではないか。日本の友好国であるインドを例に挙げた一文を引用しておく:

インドの核開発が日本国民全体として大きな問題として認識されないのと同様に、わが国にとって重大な懸案となっている北朝鮮の核・ミサイル開発や拉致問題は、北東アジアから距離を置く多くの国々にとっては些細な問題でしかない。外交における優先順位は各国で異なっているということである。

北朝鮮と観光

北朝鮮と観光

Amazon

映画『トゥルーノース』の感想

当時の北朝鮮を象徴する映像を再現し、ドキュメンタリーに徹しているわけではない。平壌で交通整理をする女性など、知っていればピンとくる画もある。だがそういった再現や表現をマニアックに喜ぶだけではもったいない。また登場人物やその家族が収容所に入るまでを事細かに描写し追究する筋立てでもない。そこで繰り広げられている不条理や、奪われ失われた、そして失われなかった人間の尊厳について考える映画だと思う。

本作の「汚さ」の表現は凄まじい。実写に引けを取らない。これでも抑えているのかもしれないが、十分打ちのめされる。さらにこれが現実であれば、という想像が追い打ちをかける。これだけ真に迫った汚さを表現するためにアニメという手段を選んだのであれば大成功だ。音楽もけたたましくなく、暗く厳しく、そして場面に合わせ美しく、勇壮に奏でられる。

主人公の形容し難い収容所生活の合間に挿入される、和やかな瞬間や美しさの表現がいい塩梅を映画にもたらしている。ここに大袈裟でないフィクションが入ってもテーマはぶれたりしていない。たくましさなどと安直に書くのは躊躇するが、環境に適応し、受け容れたくないが受け容れてしまう人間の性を描くことを忘れていないからだ。そしてあのような環境にあっても花や星は美しいと果たして思えるのか、と自らに問いかけたくなる。

映画のストーリーにはカタルシスとちょっとしたミスリードを誘う仕掛けがある。これが前述のドキュメンタリーに終始しない、エンターテイメント要素として評価したい。映画ではTEDの講演会も効果的な舞台の一つだ。観客にとって、こんな世界を見せられたとて、ほとんどはこれ以上どうすることもできないだろうが、溜飲がほんの少しだけ下がる。そしてまた真顔に戻ることだろう。


自らの思想信条を表明するダシに賞賛・批判するでなく、作中のようにスタンディングオベーションするでもなく、深く静かに頷く作品ではないかと思う。他の映画にない、得難い余韻がある。


『月刊モデルグラフィックス』2021年6月号発売:【巻頭特集】ガールズ&パンツァー最終章 第3話 上映記念

『ガールズ&パンツァー最終章』第3話が公開5周目を迎え、まとまった情報が欲しくなってきたところに『月刊モデルグラフィックス』の2021年6月号が発売されました。公式サイト、パンフレット以外で公開直後に最もガルパン本編の内容が充実している雑誌です。ディスク発売・配信開始前はこれを読んでおけば間違いないでしょう。

表紙は大洗女子の準決勝の相手、継続高校です。発売のタイミングでは大体決着がついた前の試合相手(今回ならば知波単学園)の情報多めになりがちなのですが、今回はバランスよく、という印象です。二回戦の他校試合もそこそこ触れています。本編の分量なりではありますが⋯。基本的にはネタバレ前提ですが、あまり核心的なところはベタベタ触れない、その点もなかなかよろしいかと。

知波単学園戦のシーンは満載です。こういう動画でない画像を眺めていると、やっぱり映えるんですね。戦車戦は演出だけでなく、もっと背景・風景と合わせた画で魅せてもよいのでは、という気がしてきます。どんどん映像のスピードがアップして、色々と見落としている感があります。そうそう、私の好きな「一点照準!」のシーンはなし。これはまた映像で楽しむとしましょう。


もっとも、知波単学園の結末はシーンを交えて触れているものの、準決勝・対継続の試合経過はほとんど載っていません。継続高校のT-26(継続仕様)や新登場の”白い魔女”ヨウコの公式サイトにない立ち絵もちゃんと載ってます。照準器前のヨウコもあり。使用車輛も推測しています。専門的なムックだけでなく、これまでのアハトゥンクを読み直しても「これかあ」となるかも。それはそうと、ヨウコは下ジャージです(ミッコスタイル)。ほらほら、生足じゃなくてもいいんだよ。スカートだとカットも限られてくるしさ。

雑誌の本懐は模型なので、作例も見て楽しい、作るもよしです。本編で冬季迷彩をカバさんチームだけなく、他の車輌でもやって欲しかった。雪上のマーク4も小さく載っていて苦笑。役に立た”せる”んだろうなあ、といった感想はまた別なところに書くとして、読んで損なしの雑誌です。

邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の感想

ネタバレありです。詳細にあらすじを書いたりしませんが、観た人には分かる内容だと思います。3/8公開の映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観てきたので感想です。

※画像をタッチ・クリックすると『Q :3.333』版予告・改2(YouTube)が再生できます。


これまでの『新劇場版』を観て

話題作なので冒頭でネタバレありと書きましたが、もうワンクッション置くためにこれまでの3作の感想はこちら。こんな時代だからこそ、未知の楽しみを求めたくなるというものでしょう。昨年末、期間限定公開された際にまとめたものです。この流れとTV版や旧劇場版を観た上での感想です。



それにしてもネタバレ情報の遮断は難しい。ネット対策はある程度できますが、一番怖かったのが、「観てないのに気になってネタバレを見てしまい、それを周囲に話している人」でした。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の感想

冒頭に流されたこれまでのエヴァ、今思い返すとここが最も作品に思いを馳せて心が揺らいでいたかもしれない。まだ観ぬ本編の前にあれを流されたら、別れたくない、いつまでも心に留めたいから観に来たんじゃないか、というものだ。

ただそこから始まった本編は、これまでのエヴァのように繰り返したいが繰り返せない、焼き直したいがそればかりもだめ、新要素も活かしきれない、でも終わらせたいから終わらせた、そんな風に見て取れる内容だった。

序盤の村生活からして「やってしまったな」という印象だ。生身の人間の”生”を見せたい感アリアリなのである。大人になって子供が生まれて⋯アニメのキャラクターを、世界を無機的にしたくないときの常套手段かと思う。正直既視感が漂った。エヴァですらそこは「赤ん坊とその母親」という使い古された記号的表現を用いるのか、と嘆息した。次作の仕掛けというよりも、人を廃した『Q』で示した世界観だけで話を進めるのが苦しくなった、というのが透けて見えた。エヴァの作品テーマを考えていけば、『Q』が異質か、方向性を変えたのかというところだったが。

徐々に明かされる”結界”世界との対比についても、設定としては驚きもなにもない。例えば現実と異世界、バーチャル世界と田舎⋯具体的な作品名を挙げなくてもよいだろう。こういった2つの世界が干渉したり、干渉するのを防いだりするわけだ。実はどちらかが仕組まれた世界で⋯というのもある。設定や仕組みは違えど、やっていることは変わりない。つまりは、ありきたりなのである。

そこにきてアヤナミ(仮称)の村での日々は、『破』の綾波の焼き直しときた。もちろん完全に同じにするわけにいかないので、結末は違う。表層的なキャラクターの愛らしさを多少感じたものの、シンジの立ち直りのきっかけとしては、本筋を描く前に都合よく動かされた感が強い。クローンであるが故に『新劇場版』の流れで言えば、特に綾波との関係で後半に活かす意義があったように思えてならない。

ここから立ち直ったシンジのヴィレ合流、ヴィレとネルフの戦闘そして結末は、手早くメリハリのない平坦な展開の連続に映った。特に戦闘など、用語抜きに”バトルフィールド”で戦っている感が拭えない。村にヴィレクルー、ヴンダーの運用と、生命を描いていたはずなのにその匂いがしないのだ。決戦といった緊張感も薄れる。また『Q』以降、敵としての冬月、ゲンドウの存在が大きくなったネルフにもはや組織というイメージはない。敵としての魅力にも欠けている。その上後半はこの二人にヴィレが翻弄され続ける。一体14年間ヴィレは何をやっていたのだ、という話題が蒸し返されるのだ。人対人は旧劇場版で描いたから、ではないだろうが、あのような絶望もなく悪い意味でのファンタジーになってしまった。

さらにゲンドウとミサトたちの対話、シンジとヴィレクルーの諍いと和解は冗長だった。そこから発せられる怒涛のシンジ、ひいては『Q』の描写のフォローに閉口した。シンジとミサト、ヴィレクルーの和解は、『Q』でヴィレクルーとの邂逅(ヴンダー滞在)にもう少し時間を割いていれば、もっと早く可能だった展開ではないだろうか。そういう辻褄合わせを望みたくなる程に、雑な話の進め方で落胆した。

本作で明かされたゲンドウの人となりにしても、あくまで想像の範囲だった。何もかも明かして終わり、というのは作品の一つの在り方だろう。だが、描写しないことによってキャラクターを大きく見せることだってできる。作品のテーマがシンジとゲンドウの関係に収束するにしても、ゲンドウもまた手のひらで踊っていた、というようなスケールの展開が観たかった。それも「オトナ」の世界というものだろう。そこで大義ある戦闘、和解、別れを盛り込んで欲しかったと思う。前述の通り、最後の敵としての魅力は物足りなかった。等身大ではなく、小物扱いである。

シンジもシンジで、最後の超然とした種々の関わりの片付け方(シンジ曰く、落とし前のつけ方)に溜飲が下がることはなかった。ここに辿り着くまでが『新劇場版』だとしても、交通整理のような裁きに唐突さが否めない。本作の流れでそこまで変わるか? とも言いたくなる。意図的に盛り上げない演出にも効用はあるが、電車を用いたシーンは台詞回しに妙味もなく、作品イメージにすがった陳腐な出来に感じた。特撮スタジオとシャッターには、積み上げてきた作品世界の意義がもはや失われている。

ラストに向けての存在感では、最後までマリに戸惑った。作品世界での関係性をずっと探ってきたが、それらしき情報は今回少しわかっただけで、このキャラに夢中になることはついになかった。背景のわからないキャラがいくら戦闘で活躍しても興奮することもなかった。どこかで転身、あるいは退場するのかな、という予想すらしていたくらいだ。歌うといったキャラづけも鼻白むだけだった。ユイや冬月との関係で、二重スパイのような⋯これも旧作の加持を思わせるか。そんなところで意図的に出番を端折ったのであれば、ラストが一層浮くというものだ。


せめて最後くらいは、エヴァを「終わらせる」「破壊する」と言っても、守破離を体現したような締めくくりかと望みを託した。しかし、これで終わりという感慨や充足感もなく、作品の出来に対する物足りなさだけが残っている。

『シン』のラストでは槍が重要な役割を果たす。だが、『Q』ではその存在が作品の内容とともに「やり直す」などと揶揄したダジャレで思い浮かぶ。ぜひとも完結作で「やり返す」意趣返しが観たかったのだが、叶わなかった。

序の感想でも紹介したが、1998年に出版された『一齣漫画宣言』(小学館文庫)の[解説もどき]で庵野秀明は、世間に蔓延している映像等の虚構世界が”もはや暇つぶしとしての安易な時間消費、刹那的な現実逃避、自身が傷つかずに済む慰安所、見せかけの連帯感、甘えた自己閉塞への装置としての機能しか果たさなくなりつつある昨今”と書いていた。やはり今『新劇場版』を問うに、その状況が変わっていないとの見立てだったか。観客の思い通りにはいかない、わかる層にはわかる、といった手法も厭わず、思い起こさせたいものがあったのか。

だがこうも安直な世界観におざなりな展開とキャラクター描写、苦しくなった設定の言い訳を詰め込まれては、主張も何も、エンターテイメントとしての評価も通用しないのではないだろうか。作品を以て虚構世界の限界を示してみせた、のであれば悲しい皮肉だ。


戦闘シーンを始めとしたCGは一層チャチになった上に、生理的に受け付けたくないような良い意味での嫌悪感もなく、構図の工夫もなく、劣化した。『Q』は絶望的な世界の表現は巧かっただけに、最後は『序』『破』並のクオリティを期待したが残念だった。エヴァの殺陣も単調で、艦隊戦は攻撃や挙動のバリエーションが少ないように思えた。印象に残るカットもちょっと思いつかない。エヴァを始めとしたデザインにしても、粗製濫造でつまらなかった。実写や線画も実際にやられてみると、演出として際立っているわけでもないし、引き出しが少ないのかな、などと勘ぐってしまう。

また本作はとりわけ、台詞回しや言葉のチョイスに面白味がなかった。劇中の「ボスキャラ」や「カチコミ」、「タイマン」といった言葉に、センスの古さを感じる。その上、重要な場面ではいかにも言いそうな台詞をチョイスし、そのまま喋らせている。台詞が生み出す衝撃、感情の吐露から新事実、刺激的な語彙による恩恵がないのだ。ラストのシンジの台詞に至っては、時代に即していない云々以前に、薄ら寒い。

音楽については、『新劇場版』で最も印象に残らなかった。劇中歌も作品に寄与するものではなかった。台詞と被っていた上に、メロディや歌詞に魅力を感じるものではなかった。過去のサントラやクラシック音楽の選曲に妙味もなかった。せめてクラシック音楽を使えばエヴァ、といったところからは脱して欲しかったのだが。

雑談:さらば、全てのエヴァンゲリオン。

あとは既に語り尽くされているかもしれない、与太話をして締めくくりたい。

・過去の映像使い回しは特撮オマージュも狙ったのかもしれないが、本作のクオリティでやられると萎えた。イマジナリーな世界の特撮セットで戦う場面は、セット下が見えたり、ホリゾント(背景用の幕)にぶつかったりと、制作側の特撮好きがよく出ていると見る向きが多いかと思う。ただ映像に糸が見えたり影が映ってしまうことがあっても、特撮はあくまで「特撮」という世界なので、意図的にこのような映し方をすることはほとんどない。なぜなら作り手もそんな世界の夢を追いかけているからである。というわけで、個人的にあまり承服したいものではない。

・最近観た他作品でも同じことを書いたが、お遍路を当てはめると作品にしっくりくる。お遍路の目的は、供養であり、自己の修練である。今ではレジャー感覚もあるが、元来お遍路も厳しい道程だった。お遍路にまつわる言葉で「同行二人」(どうぎょうににん)がある。これは巡礼者が常に弘法大師とともに、あるいは先祖、亡くなった家族と巡礼しているという意味である。

これを旅や冒険物に当てはめるか、バトル・ロボットものに当てはめるか、というわけだ。そしてそれを観て追体験するわけだ。

・14年間初号機に残っていた綾波とアスカ(式波)が会話するところが観たかった。「あんたも髪切りなさいよ」という流れでくだけた会話があれば、あのあまり必然性を感じない散髪場面も使いでがあるように感じた。綾波については初号機にいるからニケツで戦闘、みたいな展開も微かに期待したが、再会から別れまで『序』『破』のようなエネルギーは作品になかった。

・ミサトにはミサトの落とし前があったにせよ、最後の最後でも生きること前提を貫いてほしかった。あるいは「生きて息子と向き合う」ことをシンジと約束して欲しかった気がする。髪型ではなく、息子の顔(写真)を見て足掻き諦めない姿に、これまでのミサトの姿を呼び起こしたかった。『Q』と14年間の設定でかなり割を食ったキャラではないか。

・『帰ってきたウルトラマン』でマットアローやジャイロをデザインした井口昭彦が、”虚構である特撮映像の中だからこそ、実機に近い機能性とフォルムが必要”と言っていたのを思い出して(『日本特撮技術大全』 学研)、エヴァの世界観の魅力ってこれだよなと再認。その点でヴンダーや『Q』以降のギミックが最後まで好きになれなかったのだと思う。

・終盤のゲンドウで私が思い出したのは、ゼットン星人。ゼットン(13号機)を擁しているあたりも含めて。そして「これ一発しかない」リツコ博士謹製のペンシル爆弾(槍)でやっつけられると。どちらも急造で効果も未知だったのも一緒。シンジの手元に槍が届いたとき、「これだ」と思った。


ということはまたいつか、「~セブン」「帰ってきた~」なのか。そこもオマージュか。
いやその前にウルトラマンか。


ちょっと「良い話を聞いた」気分になる読書

日常生活で、自分から見て先輩・年長者と言われる人たちと会話をする機会がある。昨今の状況から、そんな機会はだいぶ減ってしまったかもしれないが、バイト先・会社での宴席や各種レジャーの集まり、家族・親戚づきあいといったものだ。

そこで食事をしたり、一息つきながら交わす会話は、それなりに神妙な空気になる場合が少なくないのではないかと思う。相手はくつろぎつつも、その場を崩さない程度に「そうですね」などと、何となく相づちを打つ回数が増えていたりしないだろうか。

そんなその場限りの話の中に、ときに核心を突くような話題が出ることがある。学問的、科学的な根拠や背景はさておき、これまでの経験や周囲を顧みると「確かに」「流石わかってるな」と頷きたくなるようなものだ。

今回はそんな、語る側は何気なく語っていても滋味あふれる著名人の本の話をしたい。この手の本はスイスイ読めるので、他の読書が行き詰まったときに手に取っても具合が良い。また”語り手”の実績は折り紙つきときたものだ。


まず『細野晴臣 分福茶釜』(聞き手:鈴木惣一朗 平凡社ライブラリー)は、音楽の話題を中心に人生や生活にまつわる雑多な内容だ。音楽に興味があれば、ファンでなくとも得るところは多いのではないか。

細野晴臣 分福茶釜 (平凡社ライブラリー)

細野晴臣 分福茶釜 (平凡社ライブラリー)

  • 作者:細野 晴臣
  • 発売日: 2011/02/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


ご多分に漏れず、若さとは・老いるとは、という話題が本書では頻繁に登場するが、それには世の人々の様子を冷静に観察する目があってこそである。以下引用:

 なかには頑固な人や偏狭な人もいるけど、そういう人は年のとり方を間違えたってことで、本来は自然に年をとれば知恵がつく。ところが最近の老人はちゃんと年をとれていないから。本人も自分を老人と思わずに若者になろうとする。年をとれないのが当たり前になってきて、世の中にも年寄りの境地ってものが用意されていないから、そのノウハウが途切れちゃっているんだ。


もちろん音楽の話は、一家言ある。そういえば最近音を出すエンターテイメントが煩わしいな、そんな実感が思い浮かぶ。以下引用:

大きな音が人に伝わるとは限らない。僕の経験では小さな音の方が、かえってみんな耳をそばだてるから。そこら辺からぼくの音楽のアプローチが変わってきた。

「静か」っていうのは、音楽として聴こえるっていうことだよ、音の塊じゃなくてね。いい映画を観てるみたいなもんだよ。いい映画には画面の大きさは関係ないからね。

 モノをつくるっていうと、みんな「自分的」なものばかりつくるでしょ。ぼく自身もそうだったから、それはよくわかる。でも、自分が編み出したと思っていたリズムも、実は昔からあったもので、そのことがわかったときに、モノづくりっていうのは何かが自分を通して過去から未来に通っていくだけだっていう風に感じたの。つまり、自分がどこにいるかっていうことを知ることは、人間にとって大事なことなんだよ。自分が未来に何を残すかなんていうことよりもね。


そして「自由」と題して、制限・制約の醍醐味を簡潔に述べている。薄々感じてはいたけれど、やっぱりな、の一言ではないか。以下引用:

 基本的に無礼講っていうのはつまらないんだよ。ものごとには完全な自由ってのはなくって、やっぱり枠ってものがある。どんなものでもそうだよ。



もう一冊、『アントニオ猪木 闘魂語録大全』(宝島社)を紹介しておきたい。今だ揺るぎない知名度を持つプロレスラー、そしてエンターテイナーの語録である。私は熱心なプロレスファンではないが、エンターテイメントの在り方を考える度に、その存在を強く感じようになった。

アントニオ猪木 闘魂語録大全

アントニオ猪木 闘魂語録大全


努力は当然と事もなげに口にし、そこから工夫し頭を働かせて、魅せ方を、プロレスを組み立てていることを分かりやすく伝えている。良い意味での”計算”を教えてくれるのだ。以下引用:

 一生懸命努力し立ち向かいながらも、「俺がやってることは当り前のことなんだ」と思え。すると、当り前のことをやっているのだから、今ひとつ伸びないのは当然だ。人と違った努力をしなければ⋯⋯と、あれこれ工夫をするようになる。

 プロレスのルールは曖昧だとよく言われる。リングの外に出ても、反則をしても制限時間内なら許される、と言うようなルールは他の格闘技にはない。そこに知恵を働かせる余地が生まれる。つまり、プロレスのルールは知恵比べのための道具なのだ。

 一番足りないものは”感動”だろう。感動の与え方はいろいろあるが、観客にこびを売るのではなくて自分の手の上で踊らせる。言葉では簡単だが実際に行動に移すのは難しい。


また、エンターテイメントとしてのプロレスの立ち位置を語る視点も良い。この意識はアニメやゲームといったサブカルチャーも看過できないのではないか。

 俺の場合、いつも戦いの対象が違っていたんだよ。プロレス内ではなくて、対野球であるとか、今なら対サッカーだとか。プロレスは、ある意味、劣等意識がある。新聞も扱わない。じゃあ、どうやったら扱うんだ、書くんだ。そういう戦いがいろんな場面である。



最後にこの2冊で紹介したいのが、「死」についての話題である。表現は違えど、根底には共通するものを感じる。以下引用:

不死の世界っていうのは、きっと苦しみの世界だと思うんだ。あらゆる生きものはみんな生まれて死んでいくわけだから、それに沿っていくのが一番の幸せだと思う。
(『細野晴臣 分福茶釜』 平凡社)

  私は宗教家じゃないから、なんともいえないけど、死というのは素晴らしい世界だと思うね。みんなは悲しくしすぎるんじゃないかな。もうひとつの新しい世界というか、来世に向かって旅立っていくときは、もっと祝福すべきなんじゃないかって⋯⋯。
(『アントニオ猪木闘魂語録大全』 宝島社)


もちろん死の中には望まないものも、突然やってくるものもある。昨今、それを意識する機会が多くなった。だがその瞬間が訪れるまでは怖れず、怯まず、幸福を胸に試行錯誤して奮い立ちたいものだ。

言葉について検索する前に『日本語相談』を読んでおく

文章を書いていると、言葉の意味や語源・用法がふと気になることがある。辞書を引けばよいのだろうが、PCを使っているとネットで済ませがちだ。

そこで検索をすると、出典も不明な上に、素人が書いたのか専門家が書いたのかすらよくわからない記事がヒットする。最近は頻度が高い気がする。いわゆる検索流入と広告収入を狙った記事だと思う。

そんな記事でも、自分の知識と合点がいけば「そんなものか」とつい信じてしまいがちだ。記事の体裁がよく整っていて、巷で流行りの”伝える技術”を駆使した表現の術中にはまっているとも言える。

私自身、「どの口が言うのか」と言われかねないことを書いている自覚はあるが、やはり情報を探す上で出典や引用箇所の明記というのは重要なのだ。また、権威主義のつもりはなくとも、学問に係るような内容は記事を書いた人物の経歴を意識せざるを得ない。もちろん趣味のサイトだとわかるものはそのままで構わない。だがサイトの概要に「みなさんの生活の向上のためにサイト運営を開始しました」などと書いてあっては、流石に胡散臭い。「新生活と同時にブログ始めました」という自己紹介からの、商売っ気アリアリ記事連発もどうかと思う。


そんなところで久々に『大野晋の日本語相談』(河出文庫)を読み返している。かつて『週刊朝日』に連載された、日本語に関する読者の質問と識者(大野晋)の回答コーナーを収録したものだ。大野晋の名前にピンとこなくとも、編著の辞典名を挙げれば知っている向きも少なくないかと思う。

この本に収録されている仔細な回答を読むと、情報や知識を上辺だけ汲み取ってもモノにはならない、ということを痛感する。1986年~1992年に連載された内容だが、今だ話題になる質問・疑問も少なくない。

例えば「一ヶ月」と「一ヵ月」の違いについて調べたくなったことがないだろうか。大げさに書けば、本書を読めばもうネットで調べることはなくなるかと思う。成り立ちや出典も順序立てて、簡潔に解説されている。

見れる、食べれるといった「ら抜け言葉」の質問も掲載されている。言葉の出現時期から広まった経緯、研究者の見解まで一通り読める。意外とポッと出の言葉ではなく、以前から”問題”として認識されていたことがわかるだろう。


上記は一例だが、普段なら本文を引用してもう少し面白おかしく書こうとするところだ。だが今回は、この記事に辿り着いた御仁に”遠回りの近道”を味わってもらいたく、具体的な内容には触れないでおきたい。


⋯舌打ちでもされて早々に記事から離脱されるのがオチか。なるほどそれじゃあ商売にならないよなあ。

今でも忍者『忍者増田のレトロゲーム忍法帖』

あるレトロゲームを扱った書籍の話をするのをすっかり忘れていました。なにせかなり読む人を選びそうな本でしたので。まあこのブログで言えた義理ではないのですが。今回は『忍者増田のレトロゲーム忍法帖』(著:忍者増田 インプレス)の話です。

かつて「ログイン」というPCゲーム雑誌があり、編集者が誌面で積極的に顔出ししたり、「コタツでみかん」を禁止されたり、富士の樹海に行ったりしていました。そんな(どんな?)雑誌の編集者の中に、大抵忍者装束で登場し、今ではお寒い感のある「~でござる」という語尾で文章を書く編集者がいました。それが忍者増田さんでした。後にファミ通にも在籍していたので、ゲーム好きなら案外知っているかもしれません。

いやあ、つくづく思いますが、当時は珍しかった「ログイン」という用語のアクセントも一般的になりましたね。当時は「ロ」にアクセントか、それとも「グ」か「イ」か、なんて記事もみたなあ。「ロング陰茎」の略称説もみたなあ。関係ないか。今や毎日見かけますからね。ロング陰茎のことじゃないですよ。

まあそんなノリの雑誌だったのですが、忍者増田さんはログイン誌面ではもっぱらRPG『ウィザードリィ』関係や、「バカ記事」と言われるおふざけ記事で活躍している御仁でした。そのノリそのままに80年代を中心に自身のゲーム遍歴を語っています。

紹介されているゲームは『ウィザードリィ』はもちろん、『ディグダグ』や『いただきストリート』といった、そういえば増田さんが誌面でネタにしていた気がする作品ばかりです。もう記憶が定かではないのです。そんなことより、ロバート・ウッドヘッドとか川村ハルトなんて名詞にビンビンきてしまいます。要は80年代のゲームの話はそこそこに、忍者増田さんと当時のログインに興味がまだ残っている人向きの内容です。それ以外の御仁にはなんのこっちゃ、という本です。そういえば私自身、ログイン誌面のノリを面白いと思っていたら、後年「つまらない」「寒い」と複数から言われて(こっそり)ショックを受けたこともありました。今はよくも悪くも人との関わりが広がって、思うところが多くなりました。まあそれでも、元でも一応でもモドキでも”ログイン投稿者”の端くれでありたいのですよ。ニンニン。

ページ構成は本文に対してページ下部に注が入るスタイルです。ログインでもよく見たスタイル。ここで用語説明をしたり、くだらないダジャレや他の編集者の悪口を仕込んだりするんです。私もブログをこういうスタイルにしたかったのですが、いつの間にか忘れてました。注釈で出てくる『テクノポリス』や『ポプコム』は表紙のせいで家に置いておけませんでした。そこでログインだったなあ。


それにしても忍者増田さんの容姿は変わらないですね。「良い人」らしい評判以外にも、期待を裏切らない御仁です。忍者装束がトレードマークかと思ったら、イベントでは普通に私服で登場したりする食えない一面もあり、そういうところが業界で長く「忍者増田」を続けられる秘訣なのでしょう。褒めてるのかこれは。『ウィザードリィ』のコーナー「WIZでござるよ」もファミ通各誌で度々復活しましたしね。おかげで私のような後追い投稿者が投稿することができました。投稿が載った号はまだ持ってます。掲載の記念品はまだ届いてませんが。ンモー。

ちなみにこの本ではゲームボーイの『ウィザードリィ外伝』がオススメになってますが、私は『外伝2』が好きです。あとPCで『リルガミンサーガ』を途中で放置しています。連卵円形さん根性なし!

⋯私『マイトアンドマジック』シリーズの方が好きなもんで。ツフフ。

あ、でも忍者増田さんが紹介していた「ロードランナー」が、実は私の初めて遊んだアクションゲームです。HIT BIT(MSX1)にカートリッジ挿して遊びました。これは懐かしいな。マニュアルがなかったけど、あるボタンを押すと他の面に飛ぶのよ。HIT BITはしまっておいたら、キーボードがカチカチになって使えなくなりました。


ゲームの話題をしたのだから、最後に最近何かゲームやってますか? という話を。そこまで新しいものにハマってないかな。そう言えばマッチー松本大王がアイマスにハマった、なんて記事を前見かけたな。それなら私もポプマスやってたんだなあ。

やっぱり男女の交わりがあるってだけで興味が湧く。え、違う? その辺りの性的嗜好に基づく感覚は中学生の頃から変わらないんだなあ。


情報操作という”古典”

新聞やテレビの情報は嘘ばかり、本当のことはネットに書いてある、ニュースの中身よりも付随するコメントやSNSでの反応の方が気になる⋯。情報に触れたり求めたりするとき、こんなことを無意識あるいは意識的に思い浮かべて行動に移していないだろうか。

いやいや巷の情報を全面的に信用するわけないだろう、それに何もかも疑うわけではないし、そんなバランス感覚の上での反応だ、そう返されるかもしれない。だが、昨今世界を取り巻く未曾有の状況に多少なりとも巻き込まれると、情報について今一度整理・確認したくなる。これまでにない情報が日々溢れているからだ。


そんなときに『情報操作のトリック』(著:川上和久 講談社現代新書)が簡単に参照できるので手に取っている。情報が如何に生み出され伝わり操られ社会に影響を与えているか、コンパクトにまとめられた新書だ。事例の紹介を基にした解説が中心で読みやすい。もちろん平時でも有用な内容だ。

本書が書かれたのは20年以上前(1994年)である。かつては講談社現代新書とすぐわかるクリーム色のカバーだった。例示されているのは湾岸戦争など、当時最新だった出来事も目につく。今のようなネット社会については予見しているものの、本題ではない。だが、だからこそ、今にも通じる内容だと実感できる点が少なくない。

例えば湾岸戦争は「戦時の情報操作」というくくりでも読むことができるし、国家の情報統制、アメリカ大統領選挙、テレビのヤラセ、過大広告⋯こういったものも紹介されている。むしろ、昨今の話題にも対応できていないだろうか。

印象的な内容を紹介すると、まずアメリカで大戦下に研究された”政治宣伝の「七つの原則」”など、今でもそのまま通用するかと思う。以下引用:

① 攻撃対象の人物・組織・制度などに、憎悪や恐怖の感情に訴えるレッテルを貼る「ネーム・コーリング」
② 権力の利益や目的の正当化のための、「華麗なことばによる普遍化」
③ 権威や威光により、権力の目的や方法を正当化する「転換」
④ 尊敬・権威を与えられている人物を用いた「証言利用」
⑤ 大衆と同じ立場にあることを示して安心や共感を引き出す「平凡化」
⑥ 都合の良いことがらを強調し、不都合なことがらを矮小化したり隠したりする「いかさま」
⑦ 皆がやったり信じていることを強調し、大衆の同調性向に訴える「バンドワゴン」

解説や具体例を書かずとも明快な内容だ。政治に限らず、この原則が種々の情報発信に用いられ、逆手に取られているのすら見かける。そして今や発信するのは政治家やマスコミだけではない。市井の人と思しき向きからの発信も見過ごせない。そう考えると、不特定の人物が多数書き込み、読んでいるwebニュースのコメント欄だって鵜吞みにするわけには当然いかない。誰が何と結びついているか・いないか、発信者の素性だってわからないことが多いのだから。


また、情報の一種である広告における”表現の原則”も得心が行く。特にこの2つは「要注意」だ。以下引用:

 その第一は、「訴求力の強さは、相対する訴求物がないほど強い」というものである。定められた時間の中で、言葉の数を増やせば増やすほど、注意をそらすような情報が多くなって、訴求力が落ちるというものである。

 第四は、「訴求力・注目度を高めるには、できる限り分かりやすく」である。

広告という情報を発信する目的は、何かしら知らしめたい、広めたい、売りたい買いたい、儲けたい⋯これらに繋がっている。個人や企業のイメージに繋げたい、ということもある(それが商売にも影響する)。広告の受け手が知らず知らずに辿り着いてしまうように、上記原則は欠かせないという。

そしてこの「短く簡潔で分かりやすく」を使いこなしているのが、今ならばインフルエンサーといった人物だったりするわけだ。彼らだって広告塔としてだけでなく、様々な思惑を以て言葉巧みに発信しているのかもしれない。憶測ではなく、そういう観点も必要だと思う。

昨今、ビジネスから日常までこの手の「分かりやすさ」の技術が席巻しているが、そこにも意外な罠が潜んでいる可能性がある。これは心に留めておきたいところである。余談だが、本書の新書という体裁もまた、情報を得るに抵抗を感じない手軽な量という妙味がある気がしてきて無性に可笑しい。


最後に当の私は、ここまで書いて「この記事まで裏を疑われないだろうか」と無駄に恐々としたり、「慎重さと用心が肝要だ」などと陳腐にまとめても、今日も手元で見られる情報に一喜一憂してしまうのだろうなと思う次第である。

スポンサーリンク