ネタバレありです。詳細にあらすじを書いたりしませんが、観た人には分かる内容だと思います。3/8公開の映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観てきたので感想です。
※画像をタッチ・クリックすると『Q :3.333』版予告・改2(YouTube)が再生できます。
これまでの『新劇場版』を観て
話題作なので冒頭でネタバレありと書きましたが、もうワンクッション置くためにこれまでの3作の感想はこちら。こんな時代だからこそ、未知の楽しみを求めたくなるというものでしょう。昨年末、期間限定公開された際にまとめたものです。この流れとTV版や旧劇場版を観た上での感想です。
それにしてもネタバレ情報の遮断は難しい。ネット対策はある程度できますが、一番怖かったのが、「観てないのに気になってネタバレを見てしまい、それを周囲に話している人」でした。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の感想
冒頭に流されたこれまでのエヴァ、今思い返すとここが最も作品に思いを馳せて心が揺らいでいたかもしれない。まだ観ぬ本編の前にあれを流されたら、別れたくない、いつまでも心に留めたいから観に来たんじゃないか、というものだ。
ただそこから始まった本編は、これまでのエヴァのように繰り返したいが繰り返せない、焼き直したいがそればかりもだめ、新要素も活かしきれない、でも終わらせたいから終わらせた、そんな風に見て取れる内容だった。
序盤の村生活からして「やってしまったな」という印象だ。生身の人間の”生”を見せたい感アリアリなのである。大人になって子供が生まれて⋯アニメのキャラクターを、世界を無機的にしたくないときの常套手段かと思う。正直既視感が漂った。エヴァですらそこは「赤ん坊とその母親」という使い古された記号的表現を用いるのか、と嘆息した。次作の仕掛けというよりも、人を廃した『Q』で示した世界観だけで話を進めるのが苦しくなった、というのが透けて見えた。エヴァの作品テーマを考えていけば、『Q』が異質か、方向性を変えたのかというところだったが。
徐々に明かされる”結界”世界との対比についても、設定としては驚きもなにもない。例えば現実と異世界、バーチャル世界と田舎⋯具体的な作品名を挙げなくてもよいだろう。こういった2つの世界が干渉したり、干渉するのを防いだりするわけだ。実はどちらかが仕組まれた世界で⋯というのもある。設定や仕組みは違えど、やっていることは変わりない。つまりは、ありきたりなのである。
そこにきてアヤナミ(仮称)の村での日々は、『破』の綾波の焼き直しときた。もちろん完全に同じにするわけにいかないので、結末は違う。表層的なキャラクターの愛らしさを多少感じたものの、シンジの立ち直りのきっかけとしては、本筋を描く前に都合よく動かされた感が強い。クローンであるが故に『新劇場版』の流れで言えば、特に綾波との関係で後半に活かす意義があったように思えてならない。
ここから立ち直ったシンジのヴィレ合流、ヴィレとネルフの戦闘そして結末は、手早くメリハリのない平坦な展開の連続に映った。特に戦闘など、用語抜きに”バトルフィールド”で戦っている感が拭えない。村にヴィレクルー、ヴンダーの運用と、生命を描いていたはずなのにその匂いがしないのだ。決戦といった緊張感も薄れる。また『Q』以降、敵としての冬月、ゲンドウの存在が大きくなったネルフにもはや組織というイメージはない。敵としての魅力にも欠けている。その上後半はこの二人にヴィレが翻弄され続ける。一体14年間ヴィレは何をやっていたのだ、という話題が蒸し返されるのだ。人対人は旧劇場版で描いたから、ではないだろうが、あのような絶望もなく悪い意味でのファンタジーになってしまった。
さらにゲンドウとミサトたちの対話、シンジとヴィレクルーの諍いと和解は冗長だった。そこから発せられる怒涛のシンジ、ひいては『Q』の描写のフォローに閉口した。シンジとミサト、ヴィレクルーの和解は、『Q』でヴィレクルーとの邂逅(ヴンダー滞在)にもう少し時間を割いていれば、もっと早く可能だった展開ではないだろうか。そういう辻褄合わせを望みたくなる程に、雑な話の進め方で落胆した。
本作で明かされたゲンドウの人となりにしても、あくまで想像の範囲だった。何もかも明かして終わり、というのは作品の一つの在り方だろう。だが、描写しないことによってキャラクターを大きく見せることだってできる。作品のテーマがシンジとゲンドウの関係に収束するにしても、ゲンドウもまた手のひらで踊っていた、というようなスケールの展開が観たかった。それも「オトナ」の世界というものだろう。そこで大義ある戦闘、和解、別れを盛り込んで欲しかったと思う。前述の通り、最後の敵としての魅力は物足りなかった。等身大ではなく、小物扱いである。
シンジもシンジで、最後の超然とした種々の関わりの片付け方(シンジ曰く、落とし前のつけ方)に溜飲が下がることはなかった。ここに辿り着くまでが『新劇場版』だとしても、交通整理のような裁きに唐突さが否めない。本作の流れでそこまで変わるか? とも言いたくなる。意図的に盛り上げない演出にも効用はあるが、電車を用いたシーンは台詞回しに妙味もなく、作品イメージにすがった陳腐な出来に感じた。特撮スタジオとシャッターには、積み上げてきた作品世界の意義がもはや失われている。
ラストに向けての存在感では、最後までマリに戸惑った。作品世界での関係性をずっと探ってきたが、それらしき情報は今回少しわかっただけで、このキャラに夢中になることはついになかった。背景のわからないキャラがいくら戦闘で活躍しても興奮することもなかった。どこかで転身、あるいは退場するのかな、という予想すらしていたくらいだ。歌うといったキャラづけも鼻白むだけだった。ユイや冬月との関係で、二重スパイのような⋯これも旧作の加持を思わせるか。そんなところで意図的に出番を端折ったのであれば、ラストが一層浮くというものだ。
せめて最後くらいは、エヴァを「終わらせる」「破壊する」と言っても、守破離を体現したような締めくくりかと望みを託した。しかし、これで終わりという感慨や充足感もなく、作品の出来に対する物足りなさだけが残っている。
『シン』のラストでは槍が重要な役割を果たす。だが、『Q』ではその存在が作品の内容とともに「やり直す」などと揶揄したダジャレで思い浮かぶ。ぜひとも完結作で「やり返す」意趣返しが観たかったのだが、叶わなかった。
序の感想でも紹介したが、1998年に出版された『一齣漫画宣言』(小学館文庫)の[解説もどき]で庵野秀明は、世間に蔓延している映像等の虚構世界が”もはや暇つぶしとしての安易な時間消費、刹那的な現実逃避、自身が傷つかずに済む慰安所、見せかけの連帯感、甘えた自己閉塞への装置としての機能しか果たさなくなりつつある昨今”と書いていた。やはり今『新劇場版』を問うに、その状況が変わっていないとの見立てだったか。観客の思い通りにはいかない、わかる層にはわかる、といった手法も厭わず、思い起こさせたいものがあったのか。
だがこうも安直な世界観におざなりな展開とキャラクター描写、苦しくなった設定の言い訳を詰め込まれては、主張も何も、エンターテイメントとしての評価も通用しないのではないだろうか。作品を以て虚構世界の限界を示してみせた、のであれば悲しい皮肉だ。
戦闘シーンを始めとしたCGは一層チャチになった上に、生理的に受け付けたくないような良い意味での嫌悪感もなく、構図の工夫もなく、劣化した。『Q』は絶望的な世界の表現は巧かっただけに、最後は『序』『破』並のクオリティを期待したが残念だった。エヴァの殺陣も単調で、艦隊戦は攻撃や挙動のバリエーションが少ないように思えた。印象に残るカットもちょっと思いつかない。エヴァを始めとしたデザインにしても、粗製濫造でつまらなかった。実写や線画も実際にやられてみると、演出として際立っているわけでもないし、引き出しが少ないのかな、などと勘ぐってしまう。
また本作はとりわけ、台詞回しや言葉のチョイスに面白味がなかった。劇中の「ボスキャラ」や「カチコミ」、「タイマン」といった言葉に、センスの古さを感じる。その上、重要な場面ではいかにも言いそうな台詞をチョイスし、そのまま喋らせている。台詞が生み出す衝撃、感情の吐露から新事実、刺激的な語彙による恩恵がないのだ。ラストのシンジの台詞に至っては、時代に即していない云々以前に、薄ら寒い。
音楽については、『新劇場版』で最も印象に残らなかった。劇中歌も作品に寄与するものではなかった。台詞と被っていた上に、メロディや歌詞に魅力を感じるものではなかった。過去のサントラやクラシック音楽の選曲に妙味もなかった。せめてクラシック音楽を使えばエヴァ、といったところからは脱して欲しかったのだが。
雑談:さらば、全てのエヴァンゲリオン。
あとは既に語り尽くされているかもしれない、与太話をして締めくくりたい。
・過去の映像使い回しは特撮オマージュも狙ったのかもしれないが、本作のクオリティでやられると萎えた。イマジナリーな世界の特撮セットで戦う場面は、セット下が見えたり、ホリゾント(背景用の幕)にぶつかったりと、制作側の特撮好きがよく出ていると見る向きが多いかと思う。ただ映像に糸が見えたり影が映ってしまうことがあっても、特撮はあくまで「特撮」という世界なので、意図的にこのような映し方をすることはほとんどない。なぜなら作り手もそんな世界の夢を追いかけているからである。というわけで、個人的にあまり承服したいものではない。
・最近観た他作品でも同じことを書いたが、お遍路を当てはめると作品にしっくりくる。お遍路の目的は、供養であり、自己の修練である。今ではレジャー感覚もあるが、元来お遍路も厳しい道程だった。お遍路にまつわる言葉で「同行二人」(どうぎょうににん)がある。これは巡礼者が常に弘法大師とともに、あるいは先祖、亡くなった家族と巡礼しているという意味である。
これを旅や冒険物に当てはめるか、バトル・ロボットものに当てはめるか、というわけだ。そしてそれを観て追体験するわけだ。
・14年間初号機に残っていた綾波とアスカ(式波)が会話するところが観たかった。「あんたも髪切りなさいよ」という流れでくだけた会話があれば、あのあまり必然性を感じない散髪場面も使いでがあるように感じた。綾波については初号機にいるからニケツで戦闘、みたいな展開も微かに期待したが、再会から別れまで『序』『破』のようなエネルギーは作品になかった。
・ミサトにはミサトの落とし前があったにせよ、最後の最後でも生きること前提を貫いてほしかった。あるいは「生きて息子と向き合う」ことをシンジと約束して欲しかった気がする。髪型ではなく、息子の顔(写真)を見て足掻き諦めない姿に、これまでのミサトの姿を呼び起こしたかった。『Q』と14年間の設定でかなり割を食ったキャラではないか。
・『帰ってきたウルトラマン』でマットアローやジャイロをデザインした井口昭彦が、”虚構である特撮映像の中だからこそ、実機に近い機能性とフォルムが必要”と言っていたのを思い出して(『日本特撮技術大全』 学研)、エヴァの世界観の魅力ってこれだよなと再認。その点でヴンダーや『Q』以降のギミックが最後まで好きになれなかったのだと思う。
・終盤のゲンドウで私が思い出したのは、ゼットン星人。ゼットン(13号機)を擁しているあたりも含めて。そして「これ一発しかない」リツコ博士謹製のペンシル爆弾(槍)でやっつけられると。どちらも急造で効果も未知だったのも一緒。シンジの手元に槍が届いたとき、「これだ」と思った。
ということはまたいつか、「~セブン」「帰ってきた~」なのか。そこもオマージュか。
いやその前にウルトラマンか。