デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

発出した後、された後に『論語』

今世間のことがとても気になる。ニュースを慎重に見るようになった。だが草の根にまで新情報を求めてはいない。まして床屋政談ならば、既に各種メディアに溢れている。

気にしているだけでは有意義な自宅の過ごし方ではないと、普段の生活に加え、教養を意識するようにした。教養を意識する、とは何とも妙な文章だろうか。そもそも教養とは、意識せずとも自ずから湧き上がるような知ではないのか。要は普段、如何にそういった営みから外れているかわかる一文なのだ。


そんなことを考えながら、久々に『論語』(著:加地伸行 角川ソフィア文庫)を読み返していた。ビギナーズ・クラシックスの一冊だが、簡明でこの古典のエッセンスを逃していない文庫本だ。一日一言や、名言集といった体裁で読むより体系立てて読む方が有意義だ。

近年リベラル・アーツの重要性が注目されているようだが、今まで知らなかったもの、目新しいものだけに光るものがあるわけではない。知名度、学校で学ぶ機会も含めて、もっと取り沙汰されてよい古典だと思う。


読み返すと、今世の中で話題の事柄に絡めて発信したくなるような言葉が多く載っている。以下引用:

子曰く、古の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。


 老先生(※孔子のこと)の教え。昔の学徒は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていた。今の学徒は、他人から名声を得るために学び努めている。
(『論語』 角川ソフィア文庫 以下引用元同じ ※は注として追記)

どうも孔子の活動していた2500年くらい前から、人の学ぶ目的は変わってない様子。


そして孔子は知識や経験を蓄積して学ぶこと<学>だけでなく、思考すること<思>とのバランス、すなわち中庸の重要さも説いてるのだが、これも正鵠を射たものだ。

子曰く、中庸の得為る、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。


 老先生の教え。道徳における中庸の位置は、この上ないものだ。しかし、人々は中庸を欠いて[争いあって、もう]久しい。

ただ争うことの批判ではない。”中庸を欠いて”というところが肝要だ。ここは著者の解説が良い。

<学>ばかりで<思>がないと、ただやたらに資料が増えるばかりになってしまって、どう進んでよいのか、どう判断してよいのか、分からないままとなる。逆に、<思>ばかりで<学>がないと、客観的でなくなって独善的になり、冒険するような話になってしまって、あぶないことになります。

特に”あぶない”例文をSNSで無尽蔵に見つけられる気がしてくるのは私だけだろうか。


政治の話題にも『論語』は格好の材料だ。使い古されているという向きもあるかもしれない。前述の中庸や道徳を説いてた孔子自身でさえ、政治で失するところがあった。だからこそ、我々が得るものは少なくない。それこそ『論語』を多少なりとも知っていれば、巷に溢れる政治談義も馬鹿馬鹿しくなるのではないか。以下引用:

子路(※孔子の弟子)政を問う。子曰く、之に先んじ、之に労す、と。益(ま)さんことを請う。曰く、倦(う)む無かれ、と。


 子路が政治とはなんでしょうかと質問したところ、老先生はおっしゃった。「先頭に立って働くことよ」と。[あまりにも簡単だったので]もう少し詳しく御説明をとお願いしたところ、老先生は[さらに簡潔に]こうおっしゃった。「続けること」と。

子曰く、苟(いやし)くも其の身を正しくせば、政に従うに於いて何か有らん。其の身を正しくする能(あた)わずして、人を正すを如何せん。


 老先生の教え。もし為政者が自分自身を正しくしたならば、行政はたやすいものだ。自分自身を正しくすることができないで、人々をどのようにして正そうとするのか。


ここで最近の政治の出来事など思い浮かべてみたい。例えば1都3県に対して出したものなど、どうだろう。前後の政府や政治家の行動、対策はどうだっただろうか。この言葉を2500年前からの叱咤激励ととるか、今だ通じるなんて、人類って進歩しないな、ととるか。

もちろんこれは我々、出されたほうの実質も問われている。個人が気楽に発言、発信できる世の中になって、果たして我々はちゃんと学び、考えているだろうか。孔子の説く”中庸”を疎かにしていないだろうか。自戒も込めたい。


ここまで書いて、最後は「紹介します・調べてみました」「いかがでしたでしょうか」形式で記事を締めるつもりだったのだが、迂闊にもこんな記事を書いていること自体に老先生は手厳しいのを忘れていた。『論語』がもう少し血肉となったら、こんな記事を思いつかなくなる⋯のだろうか。

そんな無意識に働く教養に辿り着くに、まだまだ先は長い。

子曰く、道に聴きて塗(みち)に説くは、徳を之れ棄つるなり。


 老先生の教え。受け売りするのは[無責任であり]、自分で不道徳となってしまうことだ。

2020年の話題雑談 平常運転に潜むメッセージ

今年はやれ年末だ、1年の締めくくりだという気分にならないですね。静かで目に見えない不安に気が滅入ることは、ようやくなくなりましたがね。でも、これからどうなるかわかりませんよ。誰にもわかりませんよ。ニュースを慎重に受けとめつつ、巷に溢れる憶測と素人の見解と思しき情報は、UFOと心霊記事の感覚で読むのをお薦めします。何だか懐かしいな。

とまあ多少皮肉を書く余裕はできましたが、例年12/31に書いていたクラシック音楽の雑談は、今年はどうもまとまりませんでした。平時の話題だったのだなあと、つくづく実感します。残念ではありますが、やはり音楽や芸術がこのような状況を救ってくれるとは、私は思うに至りません。

ただ、音楽もそうですが、平常運転している世界にシンパシーを感じたくなるときはある。最近はその頻度が高くなってきました。


そこで今年買って良かったなと思った漫画の話で2020年を締めたいと思います。『おとぼけ課長』『おとぼけ部長代理』(著:植田まさし 芳文社)。Kindleのセールでまとめて購入。連載は追いかけておらず、”部長代理”になったのは後々雑誌のインタビューで知りました。

家族、変わらない日常、といったテーマは続けているものの、ある程度現実に即した要素は取り入れています。”古き良き”を時代に移行、対応させているわけです。テレビは当然リモコンだし、スマホも使ってます。オチにだって使ってます。

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『おとぼけ部長代理』 第1巻 P.70「夫婦」より

本作は何より『コボちゃん』や『かりあげクン』とも味わいが異なる、人間の性(さが)が感じられるコマが沁みる。時事的なものだけではない「これわかる」「こんな瞬間あるある」、そんな一言、一コマの表現が好きです。これが絵柄だけでは、たとえ絵柄だけ真似したとしても、立脚しえない、本作のロングヒットの底力だと思います。


本質は”悪人”ではないつもりだが、自分の行動を自虐したり自己嫌悪に陥ることが日常生活でありませんか? ちょっと嫌味や捻くれたことを言いたくなる出来事にぶつかることはありませんか? 改めてこの味は、今の世でも通用するかと思います。どの巻から読んでも、途中で読むのをやめても大丈夫なので気楽にお薦めします。

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『おとぼけ課長』 第22巻 P.88「ふり」より

お題「#買って良かった2020

邦画と特撮、アニメに寄せて アニメーション映画『ジョゼと虎と魚たち』

時期的に相応しい映画、というのか、12/25から公開の映画『ジョゼと虎と魚たち』(公式サイト)を観てきたので感想です。ネタバレは一応あり。今回は原作の小説についてもネタバレします。珍しくどちらも語ります。原作には事前に注目しましたが、それ以外のスタッフ等には特にリサーチ、期待するでもなく。ただ予告編のビジュアルには惹かれました。

※画像をタッチ・クリックするとPV(YouTube)が再生できます。

原作小説を読んだ上での鑑賞・感想ですか? 答え:はい

原作がある映画についてはこのトピックを入れることにしているのですが、大方原作を知らないことばかりでした。ですが今回は原作小説を読んだ上での感想です。原作は田辺聖子の短編小説。

ちなみに私は田辺聖子の良い読者ではありません。パッと思い出すのは、源氏物語の感触を掴みたくて読んだ『絵草紙源氏物語』(角川文庫)くらいです。登場人物の情感の描き方は嫌いじゃない、という印象でした。

小説は収録されている短編集のタイトルにもなっているので探しやすいかと思います。既に実写でも映画化されたことがあるせいか、古本でも手に入りやすいです。収録作品の設定は時代を感じるものですが(ハイ・ミスなんて言葉も出てくる)、心情描写は今に通じる作品群です。『ジョゼ~』以外では、『うすうす知ってた』が良かったです。

収録されている『ジョゼ~』は本当にごく短編です。読むのに半日、いやもっとかからないと思います。ですが映画を観る前に読み、観た後で好みを書くなら、私は原作。さすが原作、田辺聖子というべきか、映画を凌ぐ「甘さ」が心地良い。

原作は淡々としているのです。設定や状況説明も短編故に駆け足。ジョゼの感情の起伏も、恒夫の人となりも、映画に比べると本当に穏やかで平凡。強烈なイベントもありません。登場人物もほぼジョゼと恒夫の二人だけ。二人の関係が、ただ時を経る。その生活感と現実感が、登場人物を地に足のついた輪郭にしています。退廃的では決してありません。そこが巧い。

それでいて、原作は甘い。デコレーションしてゴテゴテのカラフルな甘さではなく、澄んだ甘さ。原作ならではのジョゼの可愛らしさといじらしさは、映画を楽しんだ人が後で原作を読んでも損はないと思います。設定面でも楽しめます。原作を完全再現する必要はないですが、将棋を指すところなんて観たかった。

もちろん原作で登場する台詞や設定は映画でも出てきます。でも、特に台詞は登場するシチュエーションが異なります。映画のラストの台詞なんて、私は原作の方が生々しくて興奮しました。

といったところで、映画がどうだったかというと⋯。

映画『ジョゼと虎と魚たち』の感想

既に原作小説の感想も書いたが、映画の内容は翻案と言ってよい。原作を読まなくとも楽しめるし、映画は映画でちゃんと面白い。土台はあるが、登場人物とその設定、話の筋も構成も異なる。

恒夫とジョゼが出会ってからのついたり離れたり、浮き沈みは内容自体目を見張るものではないが、ファンタジーにならず、かと言って現実的過ぎず、二人の恋愛の行く末に没入できる。車椅子やジョゼの生活といった要素を大々的に、社会的に扱うことはない。また、本作は主人公二人を取り巻く人物の優しさが良い。この世界を成り立たせるため、主人公二人と世間を繋げ、広げるに丁度良い配置だと思う。作品に余計な不快感を加えない、存在意義のある設定とキャラクターである。

全編に渡って満足度の高い内容だったが、ラストに向かう流れだけが、少しまとめかねたかな、という印象。ここだけが本当に惜しい。映画オリジナルで、冒頭の出会いと同じシチュエーションになるのだが、もったいぶりすぎた。この箇所こそ原作の雰囲気のように、サラッとした行き違い程度(映画としてはそれなりに盛り立てて)から、一気に締めても安堵や爽快感を得られたと思う。

映像面やCGについては言うことなし。アニメ映画ならこのクオリティが当然、という程度に望みたくなる。海や海洋生物の描写はアニメ映画の見せ場の一つ、という感があるが、難なくこなしている。何よりキャストの演技は大変素晴らしい。創作における方言として、台詞の自然さに驚いた。配役も全く問題ない。大げさだが、声や演技が鑑賞を邪魔しないことは保証する。最近私が観ている一連のアニメ映画で最も良かったのではないか。

原作との出会い含めて、観たかいあった映画だった。


邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

12/18から期間限定公開(~12/24終了予定)の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を観ました。2012年の公開初日も劇場で観ました。BDも所有。『序』『破』に続いての鑑賞です。

来年1月公開予定の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(公式サイト)を観るため、『新劇場版』の私的なおさらいをしています。今や配信で観られ、年明けに地上波でも放映予定がありますが、新作の前に一呼吸置きたくて今観ておくことにしました。

※『序』の感想はこちら:

※『破』の感想はこちら:

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の感想

『新劇場版』では、音楽にも注目が集まっていると思う。楽曲だけの魅力ではなく、過去作・他作品からの選曲、劇中での効果も語られているのを見かける。

所謂クラシック音楽の選曲について、思い出す言葉がある。以下引用:

映画の音楽は音響だけではダメで、かといって純音楽でもいけない。ベートーベンでは音楽すぎて、映画音楽にならないんです。ミュージックマイナスワン、つまり音楽としての自律性を犠牲にして、ドラマツルギーと映像を生かすんです

ベートーヴェンの音楽の存在感は、交響曲第5番『運命』や第9番『合唱』の知名度を考えても、もはや映像作品に寄与しなくなっている。作中で鳴り響いたとき、ここで第9か、という驚きや音楽からもたらされる感動はないように思う。むしろ失笑を買うことにすらなりかねない。


また、作曲家・伊福部昭は特撮映画における作曲・音楽についてこんなことを書いている。『エヴァ』とその制作スタッフは何かと特撮に縁深い様子なので紹介したい。以下引用:

 一般の映画にあっては、時に、納得し難い観念的な誤った芸術論に悩まされることがあるものですが、特撮映画にはこれが殆どない。
 又、余りドラマトゥルギーに支配されすぎると、音楽はその自律性を失い次第にスポイルされて行くのであるが、この危険もなく音楽家はのびのびと仕事が出来ます。
(『伊福部昭綴る』 ワイズ出版 ※元は『東宝特撮全史』(1983)収録)

『エヴァ』における音楽は活き活きとしている箇所が多いと思う。ただ、音楽に限らず、観客側と制作・関係筋どちらもが、「エヴァはかくあるべき」「エヴァだからこうだろう」といった様式や考察に今だ囚われ過ぎてはいないか。今度の新作も予告からして多少そのような香りがする。

アニメ作品が一般的になった、という話をしばし聞く。近年のアニメ映画のヒットなど最たるものだろう。だが、だからといって作品を度し難く、説明できないものに歪め、またそれを良しとして、個性や孤高、絶対を喧伝するのに対しては、冷静でいたい。それは一般の映画にも潜む”罠”の可能性が高いからだ。


さて『Q』は主人公も観客も『破』からの急旋回、という印象の序盤から始まるが、話や章によってキャラクターの立場や役割を変える事自体は珍しくない。例えば、「かつてのライバルや敵役が味方に」「仲間同士でのバトルロイヤル」⋯古典と言わず、近年のアニメや特撮作品で思い当たるものがあるのではないだろうか。

なぜそうするのか。理由は簡単で、キャラクターを作中で一から作り上げる手間が省けるからだ。既にエピソードや背景に事欠かないので、「キャラが薄い」などと非難される確率も下がる。まして主人公がその役目を担えば、あとは制作する側の匙加減で作品はどうとでも転がせるだろう。公開当時、序盤を観て私は「ああ、今度はシンジをそういう役回りにするのね」と察した。

ただ『新劇場版』を順に鑑賞して、作戦フェイズが毎度「ピンチと予想外の出来事で緊迫した状況→強引に・豪快に乗り切る」というパターンを繰り返されると、さすがに飽きる。『序』の感想で書いたが、「シンジがエヴァに乗ることで話が進む」という点に着目すると、いくらミサトその他が焦っても「ここで負けたら話が続きませんよね」という妙な安心感を以て鑑賞することができてしまうのだ。特に序盤の戦闘場面は映画の”つかみ”として、真っ当な作品作りに徹しているつもりかもしれないが、端的に言ってワクワクしない。そんな場面が先行公開されても、「またか」となるだけである。

その毎度の作中で起きるイベントに加え、「そういうことだったのか」「それが狙いか」といった具合に、いくら劇中の登場人物に台詞で納得されたり説明されても、観客側に明らかにされていない、帰結しない要素が前2作や新作とまだ繋がらないため、それらがしこりとして頭に残ってしまう。『Q』では特にそれが顕著だ。前2作のように、まだわからない点があるが(それはそれとして)面白い、という後口にならないのだ。作品に対する疑念や疑問が挙がる反面、いやそんなことはない、こう考えればよく出来ている・面白い(と思いたい)、巷ではそんな”曲解”も少なくないのではないか。これはTV版や『旧劇場版』の味わいとは異なる、甘めに言って魅力が減退したものである。その意味でも、『Q』は「これぞエヴァ」などとは言い難い完成度だと思う。単体で評価をなし得ない、脆い作品だ。

シンジとカヲルとの邂逅については絵面を優先した感アリアリで、ピアノにまつわるシーンや台詞は、お茶を濁したと書かざるを得ない。ピアノの例えがひどく陳腐に感じる。旧来の登場人物がその調子なのだから、下地のない新登場のキャラクターが活かせるはずもない。台詞による表面的なキャラづけに過ぎない。ヴンダーのオペレーターは不要だし、マリがやたらと歌っても、面白くもなんともない。

映像面については、絶望的な世界観の描写は好きだが、CGが残念だ。いかにもCGという趣のチャチな仕上がりで、序盤のヴンダーの空中戦など、公開当時最も落胆した。意図してああいう画にしたのであれば、私は今のところ意図が理解できない。音楽は既に書いたとおり、選曲や効用面で今作については、どうにも鼻白む。

後は年明け、平穏に新作が公開されればと思います。


(2021/3追記)公開されたので感想:

邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

12/11から期間限定公開(~12/24終了予定)の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を観ました。これも公開当時(2009年)劇場で観ました。既にBDも所有。『序』に続いての鑑賞です。

来年1月公開予定の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(公式サイト)を観るため、『新劇場版』の私的なおさらいをしています。常時配信で観られ、年明けに地上波でも放映予定がありますが、新作の前に一呼吸置きたくて今観ておくことにしました。

※『序』の感想はこちら:

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の感想

手塚治虫の映画にまつわる文章をまとめた『手塚治虫映画エッセイ集成』(立東舎文庫)という本がある。

各種映画や映画祭の話題だけでなく、円谷英二との交流や、”やはり、ぼくはなんてったって、「ゴジラ」が最高作だと思う。”といった一文に代表されるような、特撮への高い評価を読むことができる。特撮と漫画、アニメ、そういった興味関心から読んでも損はないだろう。


この本に、アニメ『旧約聖書物語』を制作した際のエピソードが載っている。”敬虔なクリスチャンでもない”手塚治虫に、自由に作れと依頼したイタリアのテレビプロデューサーは聖書を描くことについて説く。以下引用:

「お前はクリスチャンでないからわからんだろうが、元来、聖書の教えは、各宗派で、みんなてんでばらばらなのである」
「はあ」
「Aの宗派の解釈はBの宗派には通用せんのだ。
 たとえばイタリアの聖書の解釈は、ドイツの解釈とはちがう。国民性によってもちがうのだ。アメリカの聖書に対する解釈なんてのは、もう、お話にならん。
 だから、アメリカ映画に出てくる聖書の物語なんて、まったくいいかげんなもんなのだ」
「――じゃあ、ぼくが、資料として、『十戒』とか『聖衣』とかの映画のスチールを参考にして、風景や衣装をつくってるのは、ダメなんですか」
「ぜんぜん、もうなにもかも、参考にはならん。百害あって一利なしである」

(『手塚治虫映画エッセイ集成』 立東舎文庫)

 このことにがっくりきた手塚治虫だが、だれでも納得する聖書物語とは”人類のあけぼの”、人類史を描くことだと悟るに至る。そして自身の仕事がアニメ市場の国際化について勉強になるようだ、と書いている。

『破』からとりわけ、TVシリーズにない要素が目立ち始める。これらを解釈するにあたって、TVシリーズの頃と同様、作中の台詞やワードから各種出典をあたり、ヒントを探す向きは少なくないだろう。そんな記事や各種発信ならば、もうさんざ世に溢れきっている。しかしそれらの情報源ですら、何処の誰がどう解釈したのかによって、実は導かれるものが全く異なるのではないか。本作の”考察”や”解釈”と謳うもので、そんな多面性・多様性まで配慮しているようなものを、残念ながら私は見たことがない。

考察や解釈の楽しみは『エヴァ』の魅力だと理解はしている。だが、完全版やディレクターズカット版、また絵コンテや資料集といった類に蛇足や冗長な側面があることも否定できない。それはいくら制作側の”事情”を知っていたとしてもである。木を見て森を見ず、いやまだ森かどうかもわからない、木かどうかわからないものを見つけてはしゃぐより、私はもう少し実体を掴みたい。ひょっとしたら映画のための”いいかげん”なご都合で満たされているかもしれない。順次上映されている『新劇場版』を観ながらそんなことを考えている。


『序』に続き、これも通常上映で鑑賞。新登場のキャラクターについては、鑑賞中に作品世界での関係性を探るため、本来ならば既存のキャラクターと絡みを増やさなければ、画面から、作品から浮くことがある。マリの印象はこれに尽きる。映画で一頃見かけた、海外版(日本版)ではオリジナルのシーンが挿入されるような感じだ。かつての『ゴジラ』シリーズでもそうだったか。まさかそんなところもオマージュではあるまい。

『破』は構成の妙味だと思う。緩急自在といってよい。登場人物、作品に対する多幸感を存分に味わったところで、どん底、あるいは既知の心情を観客に思い起こさせる。提示された新たな情報やTVシリーズとの変化が鑑賞を躓かせないことが、それらに対する興味をより引き立てる。『序』と同じくラストにカタルシスを置いているが、その快感は『序』の比ではない。それでいて「で、この世界どうなるんだ?」というヒキを忘れていないのだから、面白くないはずがない。

CGはより磨きがかかって、作品世界の魅力に寄与している。人の動かし方など、よく見ると拙い部分はあるものの、日常を見せることが作品のスパイスになるという意図を感じて心地良い。メカや使徒については言うまでもない。今だ通じる。このクオリティで、このクオリティを活かせる作品世界で話を進めてほしかった、というところだが、果たして。音楽も映画的な配置・効果になったと思う。挿入歌については、別のアプローチでもよかった気がする。歌・歌詞に頼らなくとも、画や展開が示唆するものの破壊力が大きいからだ。

通常上映でも2009年当時の予告が流れたが、『Q』はどうなるか。

(2020/12追記)『Q』の感想はこちら:

(2021/3追記)
『シン~』の感想はこちら:

邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』

12/4から期間限定公開(~12/24終了予定)されている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観に行きました。2007年の公開時も劇場で観ました。値崩れしきったDVDも購入しています。

今回鑑賞する目的はもちろん来年1月公開予定の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(公式サイト)を観るためのおさらいを兼ねたものです。これまでの3作は年明けに地上波でも放映予定の上、今や配信で観放題ですが、新作の前に『エヴァ』のことを考える時間が少し欲しくて上映開始順に観ることにしました。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の感想

今更TVシリーズとの比較や、エヴァの”謎”について問題提起してもしょうがない。エヴァを知らない人向けに解説する気もない。それなら既に良い情報が巷に溢れている。私自身もそういう記事は食傷気味である。ただ公開されて時間が経ち、新作を迎えるということで、これまでの鑑賞や情報収集から感じたことを書き連ねておきたくなった。

普段映像作品の感想を書くときに関係者やスタッフの話題は、ほとんどしない。制作裏話といったものを関係者自身が気軽に発信できる時代だが、だからこそ、まず作品世界を意識している。作品を読み解くのと、作品に不足している情報を作品外から補うのは、違う。そこを注意しないと、曲解や穿った見方をしてしまう。特に本作の総監督に纏わる話題など、最たるものだろう。

それを踏まえて、おそらくこれも有名なのだろうが、私が『新劇場版』の話題になると思い浮かぶ、ある漫画の話から入りたい。相原コージの『一齣漫画宣言』(小学館文庫)である。

新聞に掲載されている風刺ものとは一線を画す、先鋭的な1コマ漫画集である。下ネタ・エロ上等、躁鬱に人間の性(さが)ありの漫画が並ぶ。そしてこの本書の末尾が[解説もどき]:庵野秀明である。

[解説もどき]で、オナニーと『表現』は似ている、とまくし立てた後に、当時の表現についての状況を端的に示しているくだりが目に入る。以下引用:

しかし、世間に蔓延している文字媒体、演劇、漫画、映像等の虚構世界が、もはや暇つぶしとしての安易な時間消費、刹那的な現実逃避、自身が傷つかずに済む慰安所、見せかけの連帯感、甘えた自己閉塞への装置としての機能しか果たさなくなりつつある昨今、
(『一齣漫画宣言』[解説もどき]より 小学館文庫)

本書の出版は1998年である。この後、『新劇場版:序』を世に問うことになる。果たして今、”表現”の在り方に変化は起きただろうか。あるいは『エヴァ』が風穴を開けることができたのだろうか。私は残念ながら現在も上記のような状況が続いていると見受けている。SNSが一般的な道具と化して、特に”見せかけの連帯感”は痛切だ。来年、最後の新作を観るときはこの点を心したい。


また、本書に載っている漫画に「反省」という漫画がある。独身男性と思しき人物が、夜ひとりワンルームにベッドで就寝前に、「今日のオナニーはしなくてもよかったな⋯」と呟く漫画だ。
[解説もどき]ではこの漫画に”最も同調”したと書いている。以下引用:

作品否定へと直結する「この反省だけはしたくない」と常々危惧しているからだ。それに、運よくドーパミンがオート・レセプターなしで出てくれる前頭葉を使うヒトにしかできない『創造』という作業を生きていく手段とまでしている以上は、最大限の快楽を貪りたいからである。
 でないと、せっかくの人生、もったいないし。
(同)

当時と現在の心境にはもちろん変化があるだろう。今更この文章を話題にするなんて、という向きもあるだろう。だが私は新たな『エヴァ』に触れるたび、「観てよかったな」と思えるか、自分と作品に問い続けながら、この[解説もどき]を思い返している。


通常上映で鑑賞。私は『エヴァ』に体感は求めていない。別種の楽しみ方もあると認識はしているが、体感ではない、いや体感以上の情動や余韻を味わいたい。何ならそれが言葉でうまく言い表せなくてもいいと思っている。

遅まきながら、冒頭のシンジに目的を説明しない、というのは『新劇場版:Q』序盤と同じである。状況が違うようで似通っている、やはり繰り返しか、などと改めて考えながら観た。立場や状況は違えど、ミサトの態度ですら実質変わっていない。

そしてシンジがエヴァに乗ることで話が進む。乗らないことも乗るための仕掛けであり伏線である。『序』『破』『Q』すべてそうである。これは単なる制作上の都合的な話ではない。何を、誰をきっかけにシンジがその気になるか、そう観ていくと話の見通しがよくなる。登場人物を始め、TV版との違いといった要素がいい塩梅でそこを惑わしている。その意味で、例えばシンジがエヴァに乗るきっかけになったレイの存在を新作で最も楽しみにしてくれるのが、実は『序』だと思う。個人的に、どうも新作に『Q』の因果や説明ばかり無意識に求めてしまっていた。このタイミングで『序』を観る機会があってよかった。単なるTV版ダイジェストや微細な変化だけではない、大きな繋がりがある可能性を感じた。

映像はまだまだ古めかしくない。CGの質感も粗く感じない。特撮にあるような、「味」に変化しつつあるのではないか。エヴァや兵器始め、あたかも実在するような存在感が心地よい。この辺り『Q』などはやはり残念だったように改めて思う。一方で音楽は場面毎にベタベタとつけすぎのような気がした。楽曲含めて、音楽が映える場面も多いだけに惜しい。TV版の名残のようにも感じるが。


また12/11~の『破』劇場上映を楽しみにしたい。

(2020/12追記)
『破』の感想はこちら:

『Q』の感想はこちら:

(2021/3追記)
『シン~』の感想はこちら:

生き続けるヒーローを支えるもの 『ウルトラマンになった男』(古谷敏)

映像作品のスタッフ・関係者の話に興味はある。今回紹介するような書籍や情報を漁ることもある。だが作品にそのものについて語るときに、なるべく引き合いに出さないようにしている。それはなぜか。

作品に対する先入観や偏見を与えたり、曲解させてしまってはと思っているからだ。昨今、世に出る作品は鑑賞する前から既にパブリシティまみれであることが少なくない。宣伝文句や台詞に合わせて主題歌が何度も流れ、キャストのインタビューが公開される。はたまた井戸端では「あの映画のヒロインやってる〇〇、清楚な役だけど実際は2回も不倫してるよな」「あの監督、現場では横暴なんだってね」と下世話な話を読んだり聞いたりする。世間の批判をしたいわけではない。そんなところから離れて、作品を語りたいときがあるのだ。あるいはそこから見えてくる作品もあるのではないかと思っている。

最近、『ウルトラマンになった男』(著:古谷敏 小学館)をようやく読んだ。私も趣味が回帰して、こうしてウルトラマンを記事にするようになったと感慨深い。

ウルトラマンになった男

ウルトラマンになった男

  • 作者:古谷 敏
  • 発売日: 2009/12/21
  • メディア: 単行本

ウルトラマンが好きであればすぐわかるかもしれないが、著者は初代『ウルトラマン』のスーツでウルトラマンを演じていた人物である。後に『ウルトラセブン』でアマギ隊員としても出演している。


本書はとても爽やかな回想録だ。別に綺麗な部分だけを知りたいのではない。だが、この本は家族や関係者に対する感謝が溢れていて、読んでてふさぎ込むことがない。

その心意気は現場の話からも感じる。ウルトラマンが戦い終わって宇宙へ飛び立つシーン(シュワッチと飛んでいくシーンである)の撮影は、台に乗ったウルトラマンを毎回数名のスタッフが持ち上げる。前に使ったフィルムを使えばいいのにと、著者が故・高野宏一監督に話をすると、それにもちゃんと理由がある。以下引用:

「作品、作品でラストシーンは違うから、最後のカットでそういった臨場感が欲しいんだよ。それと特撮スタッフがみんな一緒に作ったという、チームワークの確認だ」
(『ウルトラマンになった男』 小学館)

作品における見せ方が主眼にありながら、作品はあくまで全員で作る(作った)ものであること忘れない、そんな信念がさり気なくとも伝わってくる。このようなエピソードを知ると、作品を差し置いて監督はじめ関係者の名前を単独で挙げ、論評し語ることが空虚にすら思えてくる。

そして何より、著者のヒーローを演じたことに対する自負が心地よい。ウルトラマンの最終回、ウルトラマンはゼットンの前に倒れる。私はウルトラマンもさることながら、あのゼットンのデザインや”強敵”という存在に当時も今も大いに惹かれた。

さらばウルトラマン

さらばウルトラマン

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video


しかし、ウルトラマンを演じた人物にとってのゼットンは必ずしもそういう印象ではなかった。そのことに多少驚き、月並みだが今より純真だった頃の記憶を呼び戻された。以下引用:

ウルトラマンが倒れた。
僕が撃たれたみたいに、一瞬胸にショックを感じた。なんでこんな弱々しいやつにやられなければいけないんだ、どうしても納得できなかった。撮影中も、今も⋯⋯。
(同)

この後、”ヒーローは負けてはいけない。死んではいけないんだ。”と続く。そういえば作品を鑑賞していて最近、安易な展開予想や制作の都合といったものに囚われがちではないか。そんな冷めた目に対しても襟を正したくなった。


本に書かれていない部分で、ウルトラマンを演じることに対する苦悩もあっただろう。当時から時間が経過していることもあるかもしれない。それでも、初代ウルトラマンの夢を壊さない、”立ち姿の美しい”内容に満足する一冊だった。

『ガールズ&パンツァー』関連物落ち穂拾い その14

オンラインミニミニホビーショー開催や『最終章』第3話特番といった楽しみも控えていますが、久々にガルパンメディアミックスの話題でも。ミニミニホビーショーのグッズは、ブロックカレンダーが気になるかな。これなら収納に眠ることなく使い出がありそう。

girls-und-panzer-finale.jp

グッズの絵柄については一言。本編との差別化を図っているのかもしれませんが、あまり”仲良しグループ”した絵柄ばかりではね。みんなで同じ服装する”一体感”もそうかな。グッズ化メンバーも代わり映えしないし、新味が欲しいですね。

『不肖・秋山優花里の戦車映画講座』

今年の状況から、あるいはガルパンの新作が待ち遠しくて、自宅で戦車・戦争物映画を物色していた御仁は少なくないのではないでしょうか。今回はガルパンに絡めた”戦車”映画ムック、『不肖・秋山優花里の戦車映画講座』(監修:青井邦夫 廣済堂ベストムック) の話です。『最終章』第1話公開の頃に発売されたこともあり、現時点でなかなか投げ売り価格です。

まずは”秋山優花里”を看板にしている点ですが、そこは正直客寄せに過ぎません。ただ紹介している映画とガルパンの関連はちゃんと解説されているので、ガルパンという話題や興味で読んで損することはないと思います。映画の舞台や登場する戦車もWW2中心と、ガルパンに寄せている印象です。なので必然的に洋画の割合が高くなっています。

紹介内容は映画に出てくる戦車の話題が中心です。”戦車”映画という本のタイトルに偽りなしです。例えば私が持っている『戦争映画名作選』(集英社文庫)のように、徹底的にあらすじ・内容紹介しているわけではありません。映画に登場する戦車の名称とエピソードに始まり、装備の違い、改造前のベース車輌といった話題が中心です。解説の半分以上が戦車にまつわる薀蓄で埋め尽くされている作品もあります。面白い映画紹介ではなく、”戦車好き”が戦車目当てで戦争映画を観たら、というスタンスなのです。

また、監修者が(東宝)特撮映画にも絡んでいるためか、『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』といった、所謂戦争映画作品ではない日本の娯楽作品もそれなりに採り上げられています。例えば『ゴジラ』(1954)に始まるM24の車体の薀蓄に関しては、特撮ファンなら多分ご存知なはず。

その点で言えば、私などは『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』も是非紹介して欲しかったですが⋯。まあこの作品は戦車よりも圧倒的な存在感を示す超兵器が出てくるのでしょうがないか。

フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ

フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ

  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: Prime Video


しかしながらこういう本を読むと、ガルパン好きも「戦車が好きで、戦車が出てくるから観てるだけ」という向きも一定数いるのだろうなあと、改めて考えます。ストーリーや登場人物の話題はソコソコに、ああこの車輌が動いている画が観られるなんて、そこにひたすら喜びを感じるファンもきっと少なくないのでしょうね。

私などは感想で度々書いているのですが、戦車が登場する魅力以外に、以上に、トータルでの面白味をガルパンに求めてしまうので、ひょっとしたらそれが少数派なのかなと大袈裟に思い詰めることがあります。

とは言え記事冒頭で書いたミニミニホビーショーなんて、並んだグッズを見る限り「キャラクター」を売りたいわけでしょ? その辺りの需要と供給は、果たしてどこまで噛み合っているのでしょうかね。まあそこは、これ以上私が心配や憶測を並べることではないでしょう。

まずは日々気になる他作品でも観て、次のOVA公開を楽しみに待ちたいと思います。

邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『どうにかなる日々』

話題の作品、ではないですが上映予定で見つけて観てきました。映画『どうにかなる日々』です。座席は相変わらず間隔が空いていて、やっぱり一度慣れると良いなと思っちゃいますね。感想は一応ネタバレありです。アニメのカテゴリを作っている割に話題が少ないので、上映時間内にお話が完結する映画作品は観ておきたい。

※予告編。画像をタッチ・クリックすると動画(YouTube)が再生できます。

原作漫画を読んだ上での鑑賞・感想ですか? 答え:いいえ

原作がある映画で入れているトピックです。大抵原作を知らない作品を観てるのですがね。ただ作者とその作品については、名前だけ知ってました。まあ原作知らなくても作品として成立しているかどうかについては、私が観た限りでは大丈夫なのではないでしょうか。原作と比較した感想を求めている向きもあるでしょうから念の為。入場者特典の絵柄と見比べた限りでは、私はアニメのキャラデザは好感触。

※PG12(小学生以下視聴の際、保護者の助言・指導が必要)作品ですが、その辺りの描写はどうでした?

性的な行為・関係を示す場面はあります。同性愛も扱っています。際どい、これ以上は、という箇所もあります。そこはうまく場面転換したりしています。また、肉体的なものだけではなく精神的なものも表現しています。この設定は個人的には妥当かなという気がします。

映画『どうにかなる日々』の感想

当日は本編前に、キャスト対談が特別に流れていた。私のような原作を知らない人間には、登場人物の名前を出して行動を語られても正直ピンとこなかった。今回は原作を知らずに観たが、ひょっとしたらファン向けの作品という狙いや位置づけだったのかもしれない。

その後の本編では、演出だとしてもOPが少々ダルかった。EDにもリンクしているようだったが、あまり意義を感じるものではなかった。オムニバス形式とは言えOPを入れるなら、もう少し作品世界への興味や期待を煽るものでよかったのではないか。

最初のエピソード「えっちゃんとあやさん」、これが生々しさでは一番ではないか。前述した、本当に生々しい絵面になる直前で場面を切り替えて、二人の関係を描いていく。普段はその関係を顕示したりせず、ある種淡々と生活してくのだ。それがこの作品の表現したいリアルか、という印象を受けた。ただ他のエピソードにも言えるが、登場人物の微細な心情を読み取り、キャラクター造型ひいてはストーリーの奥行き・奥深さを味わうエピソードかというと、私はそこまでの内容ではないと思った。

2つ目のエピソード「澤先生と矢ヶ崎くん」も同様。こちらは男子校の先生のお話。こちらはもっと精神的なものを相変わらず淡々と見せていく。肉体的に触れたりせずとも、こんな経験ないですか、例えほんの些細でも、と問うてくるような内容。こちらは同性愛のエピソードに終始せず、人間愛を仄めかす。鑑賞後の余韻はこのエピソードが最も良かった。

最後2つのエピソード「しんちゃんと小夜子」「みかちゃんとしんちゃん」が最も漫画的というか、思春期をテーマにしつつも、ちょっと描写を加えればアダルトコミックの筋書きになりそうな構成。敢えて俗な話にしたかったのかどうかはわからないが、平凡な内容。年上と性に対する憧れと拒絶、受け容れ、これらは理解できるし興味もあるが、ありきたりの表現や台詞が並んで終わってしまった。時代設定も特に生きていると思わない。


全体を通じて不快感や中だるみを感じることはなかったが、これが映画作品として魅力あふれる、映画化してまで広く世に問いたかったものなのかどうかは、疑問が残る。映画作品として、絵的にも演出的にも惹かれるような要素はなかった。音楽も主題歌含めて、作品に寄与するものでもなかった。表現の意図や狙いが平易なだけに、各描写について本作を大々的に喧伝するのは少し浅薄ではないかという気がする。むしろ「ああ、そうね」程度のあっさりとした、さりげなさを味わう作品ということであれば理解できる。映画館で観なくとも、配信やレンタルで興味ある層が楽しめれば十分、程度の魅力はあると思う。原作については今すぐに気にならないが、機会があれば読んでみたい。


邦画と特撮、アニメに寄せて アニメーション映画『思い、思われ、ふり、ふられ』

恋愛ものですね? と、あらすじだけざっと確認して観てきました。緩和前の映画館。日常は戻って欲しいのですが、この座席間隔はなかなか快適だなと思ってしまいました。そう思える余裕が出てきた、ということなのかしら。感想はネタバレしています。

※スペシャルMV。画像をタッチ・クリックすると動画(YouTube)が再生できます。

原作漫画を読んだ上での鑑賞・感想ですか? 答え:いいえ

原作がある映画についてはこのトピックを入れることにしています。そして大抵知らないという。この作品、実写でも映画化されてますね。こんな同時期に公開とは攻めてますね。こういう場合は、私はアニメの方を先に観たい。親和性というやつですね。絵柄に関しては漫画よりも、映画のキャラクターデザインの方が好きかもしれません。

原作は未読なので、比較して云々といった感想はないです。鑑賞後に「原作だとどうなってるのかな」と思うことはもちろんあります。まずは映画は映画で面白ければ、それでいいです。

『思い、思われ、ふり、ふられ』の感想

地に足のついた作品。ときに生々しくもあるが、理想や憧れ、フィクションのあるべき姿も忘れていない作品。私自身そんなに素晴らしい漫画の読み手ではないが、良い意味での古典的な手法・展開が堪能できる。漫画ならば気にならない表現も、映像にするとややクサイ、という演出はもちろんある。ちょっと偶然が過ぎるような場面もある。ただ、実写で見せられるよりは許容できる。実写は未見だが、先にアニメを観てよかったのかなと思う。

2人の女の子が主人公。まず「王子様」に憧れる奥手の女の子(市原由奈)の方が、積極的に踏み込んでいってドラマティックな、いやこれぞ漫画的な、「こうありたい」「こういうの観たい」という恋愛成就する。映像や音楽もそれに合わせた、彩り豊かな場面を盛り上げる演出になっている。特に音楽は良い。告白に至るまでの、夢見る少女、そして現実の瞬間を表現するのによくマッチしてる。ただ音量が大きかったり、延々と流れていないので、耳にべたつかない。メリハリが心地よい。楽曲としても、はしゃぎすぎていなくて好感触。音楽が良いなと思う作品が最近少ないので、印象的だった。

一方でいかにも恋愛に慣れていそうな、もう一人の主人公、山本朱里が最後の最後まで順調に行かないわけだ。予想通りというか、それもまたリアルなのか。家族(家庭)の問題もこちらが軸。これらの要素で荒れに荒れるというわけではなく、悩みや落胆、失望が積み重なっていった過程が現実的で、心情的にも理解に難くない。前述した偶然の要素が多少目につくものの、私は途中萎えずに観ることができた。

登場する男の子達も、所謂「良い奴」ばっかりで不快感がない。なさすぎるかもしれない。声も含めて、これがイケメンか、という趣。誤解を恐れず書けば、男性向アニメに出てくる男性もよりも、すんなり受け容れられる。何より女性を性的な目で見たり、いかにもアニメ的なセクハラもないので(演出としてそういう視点も入らない)、清潔感が良い。彼らはたとえこの主人公の女の子2人と結ばれなくても、恋愛できる。それが付き合い始めて終わり、キスしてハッピーエンドではない、現実的な恋愛の在り方も示している。物語の恋愛要素を楽しんでいるときに、私などはこのことを忘れがちだ。

余談だが女性向、男性向のようにアニメ作品を考えたときに、「なるほど、キャラの役割が逆なのか」などと感心してしまった。女性向作品では女の子は生々しく共感抱けるように、男の子は理想像。男性向はこの逆だが、最近は男性の存在自体がなかったり、無個性で登場する女性に干渉しないつくりだったりする。良い悪いではなく、男性向アニメにおける男(の子)の存在を考えるときに、改めて留意する点かなと思う。


最後に与太話。市原由奈と山本朱里がどちらが好みか。そりゃあもう山本朱里よ。男女受けが良い、モテ要素満載。あとはショートヘアが素晴らしい。言う事ない。私の視点から観た山本朱里はもう性的欲求でドロドロのグチャグチャで、見せられたものではない。だからこそ、この作品を観て襟を正したい。


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