映像作品のスタッフ・関係者の話に興味はある。今回紹介するような書籍や情報を漁ることもある。だが作品にそのものについて語るときに、なるべく引き合いに出さないようにしている。それはなぜか。
作品に対する先入観や偏見を与えたり、曲解させてしまってはと思っているからだ。昨今、世に出る作品は鑑賞する前から既にパブリシティまみれであることが少なくない。宣伝文句や台詞に合わせて主題歌が何度も流れ、キャストのインタビューが公開される。はたまた井戸端では「あの映画のヒロインやってる〇〇、清楚な役だけど実際は2回も不倫してるよな」「あの監督、現場では横暴なんだってね」と下世話な話を読んだり聞いたりする。世間の批判をしたいわけではない。そんなところから離れて、作品を語りたいときがあるのだ。あるいはそこから見えてくる作品もあるのではないかと思っている。
最近、『ウルトラマンになった男』(著:古谷敏 小学館)をようやく読んだ。私も趣味が回帰して、こうしてウルトラマンを記事にするようになったと感慨深い。
- 作者:古谷 敏
- 発売日: 2009/12/21
- メディア: 単行本
ウルトラマンが好きであればすぐわかるかもしれないが、著者は初代『ウルトラマン』のスーツでウルトラマンを演じていた人物である。後に『ウルトラセブン』でアマギ隊員としても出演している。
本書はとても爽やかな回想録だ。別に綺麗な部分だけを知りたいのではない。だが、この本は家族や関係者に対する感謝が溢れていて、読んでてふさぎ込むことがない。
その心意気は現場の話からも感じる。ウルトラマンが戦い終わって宇宙へ飛び立つシーン(シュワッチと飛んでいくシーンである)の撮影は、台に乗ったウルトラマンを毎回数名のスタッフが持ち上げる。前に使ったフィルムを使えばいいのにと、著者が故・高野宏一監督に話をすると、それにもちゃんと理由がある。以下引用:
「作品、作品でラストシーンは違うから、最後のカットでそういった臨場感が欲しいんだよ。それと特撮スタッフがみんな一緒に作ったという、チームワークの確認だ」
(『ウルトラマンになった男』 小学館)
作品における見せ方が主眼にありながら、作品はあくまで全員で作る(作った)ものであること忘れない、そんな信念がさり気なくとも伝わってくる。このようなエピソードを知ると、作品を差し置いて監督はじめ関係者の名前を単独で挙げ、論評し語ることが空虚にすら思えてくる。
そして何より、著者のヒーローを演じたことに対する自負が心地よい。ウルトラマンの最終回、ウルトラマンはゼットンの前に倒れる。私はウルトラマンもさることながら、あのゼットンのデザインや”強敵”という存在に当時も今も大いに惹かれた。
しかし、ウルトラマンを演じた人物にとってのゼットンは必ずしもそういう印象ではなかった。そのことに多少驚き、月並みだが今より純真だった頃の記憶を呼び戻された。以下引用:
ウルトラマンが倒れた。
僕が撃たれたみたいに、一瞬胸にショックを感じた。なんでこんな弱々しいやつにやられなければいけないんだ、どうしても納得できなかった。撮影中も、今も⋯⋯。
(同)
この後、”ヒーローは負けてはいけない。死んではいけないんだ。”と続く。そういえば作品を鑑賞していて最近、安易な展開予想や制作の都合といったものに囚われがちではないか。そんな冷めた目に対しても襟を正したくなった。
本に書かれていない部分で、ウルトラマンを演じることに対する苦悩もあっただろう。当時から時間が経過していることもあるかもしれない。それでも、初代ウルトラマンの夢を壊さない、”立ち姿の美しい”内容に満足する一冊だった。