デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

発出した後、された後に『論語』

今世間のことがとても気になる。ニュースを慎重に見るようになった。だが草の根にまで新情報を求めてはいない。まして床屋政談ならば、既に各種メディアに溢れている。

気にしているだけでは有意義な自宅の過ごし方ではないと、普段の生活に加え、教養を意識するようにした。教養を意識する、とは何とも妙な文章だろうか。そもそも教養とは、意識せずとも自ずから湧き上がるような知ではないのか。要は普段、如何にそういった営みから外れているかわかる一文なのだ。


そんなことを考えながら、久々に『論語』(著:加地伸行 角川ソフィア文庫)を読み返していた。ビギナーズ・クラシックスの一冊だが、簡明でこの古典のエッセンスを逃していない文庫本だ。一日一言や、名言集といった体裁で読むより体系立てて読む方が有意義だ。

近年リベラル・アーツの重要性が注目されているようだが、今まで知らなかったもの、目新しいものだけに光るものがあるわけではない。知名度、学校で学ぶ機会も含めて、もっと取り沙汰されてよい古典だと思う。


読み返すと、今世の中で話題の事柄に絡めて発信したくなるような言葉が多く載っている。以下引用:

子曰く、古の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。


 老先生(※孔子のこと)の教え。昔の学徒は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていた。今の学徒は、他人から名声を得るために学び努めている。
(『論語』 角川ソフィア文庫 以下引用元同じ ※は注として追記)

どうも孔子の活動していた2500年くらい前から、人の学ぶ目的は変わってない様子。


そして孔子は知識や経験を蓄積して学ぶこと<学>だけでなく、思考すること<思>とのバランス、すなわち中庸の重要さも説いてるのだが、これも正鵠を射たものだ。

子曰く、中庸の得為る、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。


 老先生の教え。道徳における中庸の位置は、この上ないものだ。しかし、人々は中庸を欠いて[争いあって、もう]久しい。

ただ争うことの批判ではない。”中庸を欠いて”というところが肝要だ。ここは著者の解説が良い。

<学>ばかりで<思>がないと、ただやたらに資料が増えるばかりになってしまって、どう進んでよいのか、どう判断してよいのか、分からないままとなる。逆に、<思>ばかりで<学>がないと、客観的でなくなって独善的になり、冒険するような話になってしまって、あぶないことになります。

特に”あぶない”例文をSNSで無尽蔵に見つけられる気がしてくるのは私だけだろうか。


政治の話題にも『論語』は格好の材料だ。使い古されているという向きもあるかもしれない。前述の中庸や道徳を説いてた孔子自身でさえ、政治で失するところがあった。だからこそ、我々が得るものは少なくない。それこそ『論語』を多少なりとも知っていれば、巷に溢れる政治談義も馬鹿馬鹿しくなるのではないか。以下引用:

子路(※孔子の弟子)政を問う。子曰く、之に先んじ、之に労す、と。益(ま)さんことを請う。曰く、倦(う)む無かれ、と。


 子路が政治とはなんでしょうかと質問したところ、老先生はおっしゃった。「先頭に立って働くことよ」と。[あまりにも簡単だったので]もう少し詳しく御説明をとお願いしたところ、老先生は[さらに簡潔に]こうおっしゃった。「続けること」と。

子曰く、苟(いやし)くも其の身を正しくせば、政に従うに於いて何か有らん。其の身を正しくする能(あた)わずして、人を正すを如何せん。


 老先生の教え。もし為政者が自分自身を正しくしたならば、行政はたやすいものだ。自分自身を正しくすることができないで、人々をどのようにして正そうとするのか。


ここで最近の政治の出来事など思い浮かべてみたい。例えば1都3県に対して出したものなど、どうだろう。前後の政府や政治家の行動、対策はどうだっただろうか。この言葉を2500年前からの叱咤激励ととるか、今だ通じるなんて、人類って進歩しないな、ととるか。

もちろんこれは我々、出されたほうの実質も問われている。個人が気楽に発言、発信できる世の中になって、果たして我々はちゃんと学び、考えているだろうか。孔子の説く”中庸”を疎かにしていないだろうか。自戒も込めたい。


ここまで書いて、最後は「紹介します・調べてみました」「いかがでしたでしょうか」形式で記事を締めるつもりだったのだが、迂闊にもこんな記事を書いていること自体に老先生は手厳しいのを忘れていた。『論語』がもう少し血肉となったら、こんな記事を思いつかなくなる⋯のだろうか。

そんな無意識に働く教養に辿り着くに、まだまだ先は長い。

子曰く、道に聴きて塗(みち)に説くは、徳を之れ棄つるなり。


 老先生の教え。受け売りするのは[無責任であり]、自分で不道徳となってしまうことだ。

スポンサーリンク