デジタルエンタテイメント断片情報誌

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チャイコフスキー 交響曲第4番ヘ短調Op.36の名盤

チャイコフスキーの交響曲第4番ヘ短調Op.36で、お薦めの録音を紹介します。第5番を既に紹介しました。

この類の記事でいつも駄弁っているのですが、やはり”名盤”と記事タイトルに冠すると外部からのアクセスが良好ですね。そういえば「決定盤」だ「特選盤」だの煽ってきた業界も終焉しつつありますね。今やサブスクのリンク一つ貼って、「じゃあ聴いてみて自分で判断するか、探してね」で終わりますからね。自分の好みすら見出せない向きにこそ、サブスクは色々試せて好都合なのになあ。妄言多謝、と書いたら許されるのかしら。

知られているようで知られていないの境界その2

クラシック音楽の世界への導入として申し分ない派手さと華やかさを持ちつつも、第5番に匹敵する「クラシックファンなら知ってるあの曲」であり、そのインパクトゆえに後々関心が薄れていく曲ではないか。まだまだ世間的な知名度がなさそうなところも同じだ。

もっともらしいことを書きながら、これは単なる自分の体感に過ぎない。そんなわけで、無性に聴きたくなったときはガイドや検索で真っ先に引っ掛かるあの定番の、だけでなく、これはという音源を採りだして、満足しておきたい。

 

ディスコグラフィ

すべてステレオ録音。私はこの音楽絵巻は状態の良いステレオで聴きたい。

まず新しい録音でお薦めなのが、リンドベルイ指揮アークティック・フィルの後期交響曲集から(BIS)。極端なテンポをとるわけでなく、優美かつ鳴らすところはキチンと鳴らす解釈が良い。サブスクもあるし、SACD・ハイレゾの音も良い。こういう演奏が容易に聴けるのは有難い。第6番もなかなか良い。


いやいやかつての名指揮者はどうなんだ、ということでベーム指揮チェコ・フィルの演奏(ORFEO)。私にとって指揮者ベームといえばこのチャイコフスキー。それも晩年の後期交響曲集(DG)ではなくこちら。実はベームに来日公演等の思い入れも思い出も全くない。それでもこのライブ録音には打ちのめされた。自分や他人が勝手に作り上げた指揮者のイメージに囚われてはいけない。こんなドラマチックに聴かせる熱いチャイコフスキー、なかなかない。こういう演奏を、私は爆演と言いたい。権利関係が原因なのか、なぜかサブスクで聴けない様子。


どうせ古典を紹介するならば、アルベルト指揮ラムルー管弦楽団の演奏。これよこれ。以前別の記事でも紹介。近年になってCDで復刻されたもの(ACCORD)。管楽器に馬力があって、ロシアのオーケストラの響きとも違う、華々しく勢い溢れる演奏がとても楽しい録音。この指揮者の他の録音も面白いので、まずはサブスクでどうぞ。


ムラヴィンスキーやカラヤンの録音と一緒に並んでいてもおかしくないのに、別に隠れた名演・名指揮者でもないのに、最近あまり話題にならない録音。モントゥー指揮ボストン交響楽団の演奏(RCA)。ついでにハイレゾ音源を心待ちにしているのに出ない録音。破綻なく統率が取れた演奏で(なのに決して退屈でない)、こういうのをスタンダードというのではないだろうか。


フランス繋がりでもう少し。これも実は再度の紹介だが、ALTUSのコンドラシン指揮フランス国立放送管弦楽団による1976年のステレオライブ録音。同コンビでショスタコーヴィチの交響曲第8番もあるが、それより聴くべきはこのCD。私も最初はショスタコーヴィチ目当てだったが、チャイコフスキーを聴いて感激した。もの凄く剛直なチャイコフスキー。細かいミスなんて気にせず音が、音楽が突進してくる。これを聴くとコンドラシンはチャイコフスキーからショスタコーヴィチまで、「ロシアの作曲家の作品解釈」を脈々と今に伝えているのだな、などと妄想したくなる。併録のキージェ中尉がまた同解釈のかっ飛ばした演奏で最高。N響とのライブより何倍も素晴らしい。


ドミトリエフ指揮サンクトペテルブルク交響楽団のチャイコフスキー後期交響曲(SONY)から、第5番に続いて第4番も紹介したい。ロシアの指揮者・オーケストラでイチオシはこれ。録音も新しめ。豪放な演奏で、金管楽器なんて下品スレスレまで鳴らしている。コンドラシン同様、ロシア(旧ソ連)の系譜、みたいなものを期待している向きは是非。CDの入手は難しくともサブスク(Spotify)で聴ける。

交響曲第4番ヘ短調

交響曲第4番ヘ短調

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最後にクーベリックの最近発掘されたライブ音源。色々聴ける良い時代。auditeから発売されているクーベリック指揮の第4番はバイエルン放送交響楽団との演奏も良かったが、これはそれの上を行く掘り出し物。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との1968年の演奏。第一楽章からフィナーレまで圧巻で、ああ良い第4番を聴いた、という満足感がたまらない。オーケストラがノッていて、ロシアの指揮者・オーケストラ顔負けの弾けっぷりである。これも私の考える爆演。というより第4番はあまり”ロシア物”という意識で探さないほうが名演に当たる気がする。生々しい録音がまた素晴らしい。そうそうこの録音、ショップサイトの宣伝では「モノラル」となっているようだが、ステレオ録音。買う前にこういう確認ができるのがサブスクの良い所。併録のハイドンやシェーンベルクも面白い。

映画『兵馬俑の城』の感想

6/16から全国で順次公開されているアニメ映画『兵馬俑の城』(吹替版)の感想です。ネタバレはありますが、詳細なあらすじを書いたりはしません。中国では2021年公開。最新の中国映画を日本で紹介する企画、「電影祭」で先立って字幕版が昨年公開されており、なかなか良かったのでリピートすることに。字幕版のときにはなかった公式サイトや新たな予告編もあり嬉しいことです。

※画像をタッチ・クリックすると冒頭約5分の動画(YouTube)が再生できます。

昨今の日本のアニメ映画でもトレンドだと思いますが、ボーイ・ミーツ・ガールや恋愛要素は大好きで、それをアニメーション文化や技術の発展著しい中国で題材にするとどうなるのか、今後も楽しみにしています。

映画『兵馬俑の城』の感想

まず”兵馬俑”が何かは、詳しく知らなくとも大丈夫な映画である。映画冒頭でも触れているが、人や動物を模した(陶器の)人形、程度で前知識は十分だろう。学校の歴史の授業を思い出す向きもあるかと思う。ただ美術やCGの凄みを堪能するのであれば、ネットで事前にちょっと下調べすればなお楽しめる。

その兵馬俑を題材として、内容は予告編や公式サイトで謳っている通り、美男美女の活躍するバトルあり、恋愛ありのファンタジーだ。挿入歌のシーンなど、ベタでクサイ演出がややかったるい場面はあるものの、古典的なストーリーの組み立ては悪くないし、アクションシーンは満足度が高い。映像だけに注目していても楽しめる。

まずキャラクター中心に話をすれば、ヒロインのシーユイが強く麗しくて素晴らしい。最近公開されている中国のアニメ映画に登場する女性キャラは『白蛇:縁起』にしろ『山海経』にしろ、格闘能力が高い。男性主人公より強い場合も少なくない。本作で主人公に剣技の稽古をつけるのはヒロインだったりする。こうした造形が作品の幅になっており、終盤で主人公とヒロインが剣を渡し合って共闘するバトルシーンは演出や音楽も相まって、胸がすくようなカッコよさである。恋愛過程に留まらず、作中の仕掛けとして機能していることに感服した。

※『白蛇:縁起』『山海経』の予告編。画像をタッチ・クリックすると動画(YouTube)が再生できます。

また規制もあるのだろうが、シーユイの露出控え目の衣装が清楚で最高。アジア的な感性なのだろうか、ファンタジー過ぎず、歴史的・資料的に忠実過ぎず、絶妙の塩梅だ。キャラクターの等身もデフォルメがきつくなく、リアル指向で良い。昨今性別はセンシティブな問題だが、尻や胸を強調し露出せずともセクシャリティは十分喚起できるのだ、と言いたい。

規制といえば、本作では主人公を始めとした登場人物が陶製(器)であることをうまく利用して演出に活かしている。人間ならば血が吹き出て骨が砕けるような残虐なシーンが、「割れる」という表現に上手く置き換えられている。おかげで年齢層問わず、心理的な負担も比較的少なく映画に没頭できるのではないか。アイデアと発送の勝利だと思う。このための”兵馬俑”という題材だったのか、と感心しきりである。


主人公とヒロインが織りなすストーリーは王道の、邂逅からすれ違い、再会と別れ、新たな旅たち、といったもの。作品のテーマである、人の心の有り様、といった要素もベタだが好感が持てる。挿入歌が入るシーンはややクドいが、恋愛物が好きなら許容範囲だと思う。私は割り切ってニンマリして観ることができた。吹替歌唱も作品に合っている。

※画像をタッチ・クリックすると動画(YouTube)が再生できます。

同様にこれも古典的だが、当初味方だと思った悪役が実は主人公と同じ境遇で、夢を見た果てに悪事を企てて⋯という後半の展開も明快だ。バトルシーンもメリハリあって迫力満点。後半は目が離せない。主人公とヒロインだけでなく、コメディリリーフのマスコットが最後に大活躍するのも心がはずんだ。ベタだ何だと書いてきたが、そういう”定番”や”お約束”を外さないのが堅実でポイント高い作品なのだ。霊獣の存在も、中国の古典に登場する妖怪を思わせつつ、今どきのアレンジが良い。オマージュか遊び心かはわからないが、映画『トレマーズ』に出てきたモンスターとよく似た特徴の化物が登場したりして面白い。

CGは一見の価値あり。日本でこのクオリティが発露しているアニメ作品はあまりないと思う。建物や背景美術は特に素晴らしい。メインの登場人物だけでなく、脇役・端役や小道具に着目しても飽きない。歴史的、文明的要素が目に馴染む。もちろんアクションシーンも滑らかだ。京劇の魅力とアニメーションは親和性が高い。吹替版も違和感なかった。字幕版どちらで楽しんでもよい作品だ。


映画の最後、切なくも前向きな締めくくり(安易なハッピーエンドでないのが趣深い)かと思いきや、続編があるのか? という場面転換が挿入され⋯私は続きが気になった。あれば楽しみにしたい。


指揮者・宇野功芳の芸術

ニュースになって世間が騒ぐタイミングではなく、その前後で粛々と話題にするのが好きである。偏屈と言われるだろうが、人と一緒になって騒ぐのが生来好きではないし、話題より自分が目立ちたいだけ、などと思われたくない。何より自分にとって一過性で済ませたくない話題は大事にしたい。
www.ongakunotomo.co.jp

今月、6月20日発売号を以てクラシック音楽・ディスク情報誌の『レコード芸術』が休刊するそうだ。そのニュースを見て評論家、いや指揮者・宇野功芳を思い出していた。「そういえば6月(10日)だったな」と。


演奏(家)の好き嫌いなんて、10人いれば10人違っても大いに構わない。ぼくが誌面での評論家・宇野功芳から学んだことだ。人に勧められるがまま鵜呑みにしたり、他人の評価を気にして好みを見つけられない方がよほど浅薄ではないか。だから『レコード芸術』はムック共々専らカタログ扱いしていた。ディスクの推薦・非推薦など、どうでもよかった。もっとも、それだけなら「宇野功芳」の名前を今まで記憶に留めることもなかった。ぼくが氏に注目したのは「自らも指揮活動をする」という点で一線を画していたからである。

別の記事でも度々話題にしたが、ぼくは指揮者・宇野功芳がとても好きである。考えてみてほしい。クラシック音楽好きが高じて「私が大好きな〇〇を”俺ならこう振る”で指揮してみました」という人が世間にどれだけいるだろうか。せいぜい感想やレビューをこうしてネットに書き散らすか、身近で話の種にして終わるのが大半ではないか。そしてそんな少数の実演できる人の演奏は少なからず商品化される。営利目的でも何でも、商品化されるとこうして今でも聴ける。その真価を問い続けることができる。もう、そのことからして尋常ではないのである。そういう人物を発見できたことについて、『レコード芸術』にはやはり感謝するべきなのだろう。


前置きが長くなったが、そんな指揮者・宇野功芳と新星日本交響楽団の一連の演奏が『宇野功芳の芸術』(キングレコード)としてボックス化されている。限定盤だそうだが、現時点でまだ買えるようだ。

宇野功芳の芸術

宇野功芳の芸術

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実はここに納められたベートーヴェンは出来不出来の波がある。第9はとても良い。生前指揮者が苦心していると語っていた第1、第3楽章は聴きものだ。特に第1楽章は冒頭からしてゾクゾクする。時間を忘れる、重厚で聴き応えある演奏だ。第4楽章の歓喜の主題に入る箇所は何故かコブシを効かせ過ぎているが、合唱も良いし、全体としては荘厳な楽曲の進行に思わず唸ってしまう。歓喜よりも感傷的な雰囲気がある。もちろん真意は不明だが、生前最後に演奏した交響曲がこの曲だった理由を察してしまう。その最晩年の大阪交響楽団との演奏も同解釈で、録音が良く甲乙つけがたい。


一方で第7など、生前の指揮者の言葉を借りればまさに「やりすぎ」といえよう。作為的で、拍子抜けするような仕掛けが目立つ。これは晩年のライブの方が一気呵成の演奏でオケ共々燃焼しており充実している。演奏を重ねて、第9とは異なった境地に達したのかもしれない。


一部紹介した晩年の録音の中にはアマチュアオーケストラとの演奏も多く、確かに演奏の精度が気になる箇所はある。また実演ではもっと良かった、あるいは悪かったということがあるかもしれない。だが、そういった技術的な問題や録音環境を突き抜けた熱意や解釈のほとばしりを理解したとき、それがディスクから少しでも伝わったとき、それもまた芸術というのではないのだろうか。発売された『芸術』から聴き直していくと、そんな発見が少なくない。

指揮者・宇野功芳の演奏を一口で語ることはできない。比喩的な表現で片付けることもしない。聴かないで評するのは論外だ。ぼくは、ひとつの芸術の在り方を伝導してくれた指揮者として、宇野功芳の録音をこれからも聴いていくと思う。そしてそんな芸術との出会いをまだまだ求めていきたい。それは誌面でなくとも、今ならもっとできるはずだ。

邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『シン・仮面ライダー』の感想

ネタバレありです。3/17公開の映画『シン・仮面ライダー』を観てきたので感想です(公式サイト)。事細かにストーリーを書いたりはしませんが、観た人向けの内容かと思います。


※画像をタッチ・クリックするとプロモーション映像 A(YouTube)が再生できます。

シン・仮面ライダー』を観る前に

感想の前に、私がどの位昭和の仮面ライダーが好きか、ということを簡単に。所謂TV放映は再放送で観ました。それも『V3』くらいまでです。最近だと無料配信の機会に再鑑賞しました。シーンを見て、「ああ、あったなそういうの」と思い出す程度のファンです。漫画版は読んだことがないです。今回の映画前に予習したり、日頃から鑑賞しているわけではありません。ただ子供の頃、切り立った場所や河川敷でライダーごっこはしました。そういう記憶とともに思い返す作品です。

今回は普段通り、他の一般映画作品と同じスタンスで鑑賞したつもりです。『シン・ウルトラマン』の感想と同様、まずは日本を代表するヒーローを題材にした最新映画としてどうだったのか。その後は、ぬるいファンの雑談で締めたいと思います。

ちなみに私は『ゴジラ』や『ウルトラマン』といった、東宝・円谷系の方が特撮は好きです。何となく、アニメファンだとやはり東映特撮が人気のような気がしますが。

シン・仮面ライダー』の感想

まず普段は感想で優先させないのだが、冒頭からCGと思しき処理のクオリティの低さに少々萎えてしまった。人間サイズ・等身大が中心の映画なので、車でも木でも、比較しやすい対象物が多い。合成はもう少し凝って欲しかった。バイクによる逃走劇は観やすかったが、手に汗握るという画では決してない。そのせいもあって、CGが映像から浮いているなとすぐ感じた。特撮の味わい、にしては中途半端だと思う。むしろ大げさだが、日本映画の弱点は相変わらず、という印象に落ち着く。

さらに序盤で、駆け足気味に舞台背景から用語、登場人物の気質まで台詞でまくしたてる構成はどうにかならなかったのか。劇中で行動で表したり、透けてくる構成になぜしないのか。できないのか。「今回の仮面ライダーはこんな設定で、登場人物はこんな風にしたんです! したいんです! わかった?」の圧に嘆息した。TV放映版を始めとした原作を知らない層への配慮があるのかもしれないが、もう少し自然な導入で一本立ちした映画作りが見たかった。これだけ制作陣を含めた宣伝をしているので他作品の名前を出すが、『シン・ウルトラマン』も開幕から同様の印象を受け、そろそろ唐突感に気がついて欲しい。

今作では序盤から台詞を中心とした演出や場面転換が芳しくなく、度々気になった。台詞回しも一部不自然で古臭い。芝居的な表現でもなく、現代劇らしくもなく意図が不明だ。また口癖での性格付けを漫画・アニメ的な手法で狙っていたとしたら、残念ながら役者の演技が追いついていない。特に本郷猛を始めとした主人公サイドに妙なあざとさや、ぎこちなさを感じてしまう。そこから繰り出されるギャグも間が悪く、薄ら寒い。これも古典的だが、大真面目なシーン、淡々としているのに観客にはおかしくてたまらない、という手法も世の中にはある。正直引き出しの少なさを感じてしまう。

このような慌ただしく冴えない作品世界の構築に影響されてか、ショッカー、特に怪人(オーグ)も敵としての魅力をあまり感じなかった。映画という限られた尺の中だからこそ、ヒーローに匹敵する魅力を垣間見せてもよいはずなのに、である。口調や台詞による雑なキャラ付けが目立った。知能面で優れている、という見せ方にしても単調だったか。人工知能の存在も既存のSF的な想像の範疇で、現代の風刺という風情でもなく、あまり本作の面白さに寄与していない。余談だが元・味方(今は敵)という関係性や展開はこのところ創作でよく見かける。キャラクターを一人作る手間が省けるからだと推察するが、個人的には食傷気味。

メインのストーリーに関しては、現代らしく個人や家族にフォーカスしていると言うには前述の設定披露と性格付けのせいで、何が起きてもダイジェストのような感が否めない。一方で、人類を救うという目的の真意や使命という観点から着目しても内輪話のような世界観しか見えてこず、最後まで登場人物に感情移入することもなく終わってしまう。登場人物が感極まるシーンと、観客側の感情の高まりにズレが生じている気がした。

では肝心の戦闘シーンはどうだったか。あまりピンとこなかった。所々ロングショットのチマチマした画が挿入され、迫力に欠ける。CG使用の悪い点が表出している。映像的にはロケ現場を見る楽しみはあるが、それ以上のものがない。シーンの挿入としてはストーリーの流れが悪いのか、戦闘に期待が高まり、夢中になる展開が少ない。せっかくの戦闘が中断されて間延びする箇所もある。人間離れした強さを表現するに、PG12の中途半端な血飛沫は虚しかった。必要な要素だったのかも疑わしい。グロテスクな描写以外でも、異常な力と人を殺した恐怖や実感は表現できるのではないか。敢えて書くが、それに苦心していたのが原作の一つ、TV放映版のように思う。空想の戦いを彩るのならば、格闘や剣技で型や組手の美しさを強調してもよいのに、そういった様式美、カッコよさが”ライダーキック”にだけ残っているのが何より寂しかった。夜間・暗闇の戦闘は盛り上がりどころなのに暗すぎて視覚的に分かりづらく、ライダーの光る目やライトが眩しい演出に囚われすぎている。

そこにきて最後の戦闘は、それまでの演出と打って変わって泥臭くて笑ってしまった。笑ってしまったといえば、泡になる演出もしつこく見せ過ぎたか。展開と相まって、あの頻度で繰り返されると恐怖や絶望を感じることはない。別れやショッカーの恐ろしさを演出するには、陳腐になってしまった。制作側が大真面目に作っているのに、観ている側がギャグに感じてしまう好例だと思う。


最後に音楽は、相変わらず全て新録していない様子。今回は原曲をアレンジした新録もあり、悪くなかった。映画音楽・サントラ好きとして、なぜ音楽は新しい響きに挑んでくれないのか不可解だ。結局のところ、新しいヒーロー像を見せ広く一般に問う映画というより、コアなファンが楽しむに過ぎない映画だったということか。それをエンドロールの選曲で示唆している、と。そう考えると合点がいく。

雑談:邪魔な相手はゆるさんぞ

見出しは本作の内容にも一応合っている歌詞から。最後に私が『シン』を観ての与太話をほんの少し。既に巷に溢れている内容と大差ないだろうが、気にしない。


・単に発信機をつけるだけでなく、裏の裏をかくような蜘蛛男の頭脳プレーが好きだったのに、ただの薄っぺらい講釈垂れになってしまって残念無念。初期の魅力だと思うんだがなあ。現代において迂闊な知恵比べ、化かし合いの描写は作品の底が知れるということか。


・本郷たちの後ろをついてくるサイクロンがバトルホッパーみたいで可愛い。ああいうさり気ない一コマの方が未来を感じる。


・カードで本郷猛とハチオーグ(変身後)が出て大満足。実は蜂女の回が好きで、家で鎖タイプの自転車の鍵を体にまいて、手を握りしめながら椅子に座って遊んでた。もちろん一人で。この回はライダーキックもえぐくて好き。だから『シン』でキックをわざと外したときは凄まじくがっかり。


・『ライダーファイト!』だったかの楽曲の新録かアレンジは聴きたかった。ついでに2号の同ポーズは腕がもう少し、気持ち水平なタイプが好き。


・仮面ライダー1号、2号のラインと見分け方は、今回でまたバリエーションが増えるわけですか。なるほどこうして商売にも繋がると。こういう小ネタを拾うのは嫌いじゃないのだが。最後のバタバタしたマスク剝がしの戦闘もね、オマージュなのはわかっていても、うーむ。


・このキャストなら、もう次は『シン・ウルトラマンVSシン・仮面ライダー』か。ビデオで観たなあ。特撮がウルトラシリーズと一味違って面白いのね。やらないとは限らんよなあ。



今更電子辞書の魅力を思う

電子辞書をここ最近趣味でも使っている。たまにはPCやスマホを気にせず、読書をしたい。そのときの調べ物用である。ネットで検索して「〇〇ってよく使いますよね? 〇〇の意味について調べてみました」といった定型文から始まる記事を一々読みたくないし、そういった下手な商売には加担したくない。権威主義ではないつもりだが、さすがにどこの輩が書いた記事か、信頼の置ける内容か吟味するのも無駄な時間だ。

もちろん、ジャパンナレッジのような有益なサイトもある。だがそれほどの用事ではない。それは私の記事を見ていただければわかるかと思う。用途別の辞書は既に数種類持っており、趣味で手元に信頼できる便利な情報源が置けるのはありがたい。当然文章を考えるときにも使える。
japanknowledge.com


最近の電子辞書は辞書やコンテンツがたくさん搭載されており、面白機能も多いのに、少し古くなると軒並み安い値段で買える。

私が使っているのはシャープのPW-A9300、9200である。発売から10年は経つので、もはや投げ売り状態だ。状態を気にしなければ数千円位もしないのではないか。搭載されている辞書を古本で買ってもこの金額では全て揃わないだろう。私が持っているのは画面に薄っすらヤケがあるが、それ以外は綺麗で満足している。

この電子辞書を選んだ理由は色々あって、まずタッチパネルがキーボード面にもついていて、使いやすい。タッチペン入力をするときに、手の角度が自然に使える。余談だがこれで漢字の書き取りをやると字が思い出せなくなっており、落胆する。

次にこのモデルまで、標準でテキストエディタ(テキストメモ for Brain)が搭載されている。JIS配列で文章をメモできる道具が欲しかったので願ったり叶ったりである。電子辞書は意外とこの機能がついてないのだ。テキストメモは後発のモデルでもコンテンツ購入することができるのだが、3千円近くかかる。それなら搭載している型落ちのモデルが得だと判断した。
brain-library.com

またPW-A9200はシャープのBrainシリーズで広辞苑を標準搭載している最後のモデルらしい。私はその情報だけで9200をついでに買ったのだが、実際に使ってみると広辞苑は案外使い出がある。古語に強いので、特に近代文語文を読むときに便利なのだ。古語辞典を搭載している学習用モデルだと広辞苑でなくてもよいかもしれない。この時代のモデルでも当然USBでPCに繋げるので、必要なコンテンツを購入して活用することもできる。


他にも使いこなせていない機能満載である。こういった商品は最新の情報を扱っていないと、という考えもあるだろうが、私の趣味の範囲では十分一線級だ。むしろ過去を知らずに昨今、進み過ぎている気がする。基本ネットワークに繋がっていない道具なので、道具が情報操作の悪意を受けることもない。そんなことも少し嬉しくて使っている。

年の初めに『空の大怪獣 ラドン』(1956)4Kデジタルリマスター版の感想

現在開催中の「午前十時の映画祭12」で『空の大怪獣 ラドン』・4Kデジタルリマスター版を観てきました。本作は久々の正月興行でしょうか。『モスラ』に続いて楽しみにしていた作品。空飛ぶ怪獣の作品が続きますね。まあ、ゴジラも空を飛べますが⋯。

今回は映画館での体感・4K版の映像諸々についてと、せっかくなので作品の感想も。

改めて、既に各種メディアで観られる作品なのであらすじ列挙はなし。鑑賞した人向けに書きたい。念のため、今回の4K版で従来と話の構成が変わったりはしていない。

ホラー調で進む序盤は構成もさることながら、元々の画が良い。今回発色が良くなり、明るい場面がより鮮明になった。汚れや汗、死体までもが生々しく、撮影やセットの質が図抜けていることがわかる。一方で、書割もハッキリクッキリになってしまうのはご愛嬌。この辺り、DVD化された時点でかなり鮮明になったと思っていたが、その印象の上を行った。あまりに何もかも「見え過ぎる」のもちょっと⋯というのは独りよがりか。

話の展開は結構早い。メガヌロンの正体も引っ張るのかと思いきや早々とお目見えだ。メガヌロンは人間相手だと結構強いのだが、あくまでラドンの前座である。洞窟でのラドン誕生シーンも昔は怖かったが、今観ると広々としたセットに感嘆してしまう。広い空間を使った演出ができているので、セットだとわかっても違和感が先行しない。現在のほうが技術は優れているはずなのに、観る度に当時の画作りや演出に目を見張る作品だ。

ストーリーは、序盤の”正体不明の殺人鬼”までの下りが済んでからは、古典的なパニック映画の流れである。後半はラドンの暴れっぷりと、特撮を堪能するものだと思う。人類側も主人公にヒロインと配されているものの、メガヌロンやラドンの存在を盛り上げる以上の存在感や行動力を発揮したりはしない。他の登場人物も同様である。ファンが(当時の)東宝映画のキャストを楽しむには良い。

また『ゴジラ』(1954)同様、ラドン登場の背景に原水爆実験の影響を匂わせているが、本作ではやや強引さがある。ラストの演出で現代に蘇った悲劇性は感じるものの、大掛かりな害獣駆除の状況に人類が挑んだ顛末という印象だ。

一連のラドン対自衛隊に関して書けば、東宝特撮映画定番の「飛び道具のない怪獣と宇宙人には滅法強い人類」が堪能できる。航空部隊の攻撃はラドンにダメージを与えている。空中戦でラドンにやられているシーンが目立つが、通常兵器で善戦は実は珍しい。ラドンや戦闘機が飛び交うさまは、ちょっと現代の演出にないリアルさがあり、見所の一つだ。合成は今一つだが、操演が素晴らしい。”定番の”見せ方を模索している時代の方が、ある種先を行っているように思えてしまう。24連装ロケット砲やオネストジョンといったファンお馴染みの架空・日本未配備兵器も登場する。余談だが、この流れで『地球防衛軍』(1957)を観ると妙に納得する。

九州各地を暴れるので当時の風景、ミニチュアを鑑賞するのも本作の醍醐味だ。これは4Kの恩恵がある。佐世保を象徴する建造物として今も度々話題になる針尾送信所が映るが、この頃まで「かんざし」が頂上にあることがわかる。またカルピスの旧マークも看板として登場したりする。

怪奇色が強い序盤からラドンがバレエダンサーのように思えてくる登場シーンまで、音楽も面白い。こういう楽曲をライブシネマコンサートで聴きたいとつくづく思う。サントラは今容易に聴ける。良い時代だ。メガヌロンの声も入ってるよ。

以後『ゴジラ』や『モスラ』のような主役級のポジションにはならなかったとは言え、カラー・2作と違う色合いの特撮映画として意義ある作品だと思う。広く一般にも⋯とまでは言わないが、映画好きで興味があればどうぞ。

邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『かがみの孤城』の感想

昨年12/23から公開の映画『かがみの孤城』を観てきたので感想です。細かい内容は列挙しませんが、一応ネタバレありです。原作はヒット小説ですので、既にストーリーを知っている方も少なくないでしょう。実写ではなくアニメ、という点にも期待していました。

※画像をタッチ・クリックすると予告編(YouTube)が再生できます。

原作を読んだ上での鑑賞・感想ですか? 答え:いいえ

原作小説を読んだことはありません。メディアミックスにも様々な戦略があるのでしょうが、個人的に映画は映画、原作は原作で作品が一本立ちしていると嬉しいです。その上で各々異なる味わいや楽しみが得られると最高です。「小説を読んでいればこのシーンの意味がわかる」、といった補完の関係で終わってしまうのはやはり寂しい。本作はどうでしょうか。そのあたり話題作の映画化ということもあり、映画が面白ければ小説にも触れてみたいです。映画公開前は既に古書でずらっと並んでましたが、再度人気が出ている様子。

映画『かがみの孤城』の感想

SF要素、ファンタジー要素はあるが、設定等は深く気にしない方がよい作品。鏡の存在を始め、突然何が起きても「ははあ、そういう世界なんだ」と思って、割り切って観た方が楽しめる。何より作品の主眼がそこではない。主人公を軸として、鏡の向こうの”城”を通じて明るみになっていく彼女達の現実と、再び歩み始めた先は果たして如何に、という作品である。

特に主人公の境遇は浮ついたところのない、リアルで生々しいものだ。細部は異なれど、これこそ私と同じ体験、という向きも決して少なくないのではないか。自身が当事者でなくとも、同じような悩みや出来事を世のニュースで知ったり、身近で起きたことがあれば実感が湧くし、想像は容易だと思う(そうであってほしい)。城が話の中心だとタイトルで思わせて、物語を動かす、未来を左右するのはそうした彼女たちが生きる現実世界の出来事であり、行動である。この辺りの構成はちゃんと筋が通っている。

ただこの構成故か、残念な点が少しある。まず城での鍵探しの過程がイマイチ映像映えしない、あまり面白味を感じないのだ。種明かしのきっかけは古典的で悪くないが、全体的にかなり地味で素っ気ない。原作通りなのかもしれないが、時間の経過ばかり強調されて、行動としてあまり画になっていない。台詞で片付けている箇所も見受けられる。冒険もの要素を期待して鑑賞すると肩透かしをくらうだろう。彼女達にとって、現実世界から離れて仲間と安寧に過ごせる時間・場所が貴重なのは理解するが、舞台装置としてはこざっぱりし過ぎた感がある。

次に主人公のこころ以外の6人の境遇については、ややバランスを欠いた描き方だったと思う。数合わせ気味に存在する人物もいる一方で、ストーリーの核心に迫る人物については、もう一押し人となりを細やかに描いて欲しくなった。映画という尺の問題もあったのかもしれない。ラストの流れは悪くないが、全員を描くがためにかえって薄味で駆け足気味になってしまった。前述の通り、城での鍵探しがメインの展開でもなく、個々の特性を活かす場面が印象に残るような作品ではない。せっかくの世代と学校という繋がりの妙味がもったいなかった。最近の映画で定番とも言える、ノスタルジー要素もそつなく挿入している。これが終盤の種明かしにも関係しており、単なる幅広い層へのウケを狙っているだけでないのは好感が持てる。それだけに繰り返し観て登場人物の人となりを再発見したり、したくなるには少々物足りない出来になったのが惜しい。

キャストの演技は気になる箇所はなく、全く問題ない。音楽は無駄な音響なく、可もなく不可もない。映像面は高い水準で普通。昨今のアニメ映画ならこの位は当然、というクオリティ。アニメならではの派手な演出は少なく、作品を忠実に再現することを意識したものではないか。余談だが、作中で「可愛い」と評されるキャラクターとの差別化、老若男女の表現はまだまだ難しいのだなと感じた。アニメ化に際しての問題点かもしれない。脇役含め、全員可愛いキャラデザだと思った。


公開時期を考慮して改めて書くと、冒険もの、スカッと何かを発散するような作品ではない。じっくり鑑賞するタイプの作品だ。映画単体としてはやや不満だが、原作も気になる内容になっているとは思う。機会があれば読んでみたい。


2022年の話題雑談 音楽と日常 ウクライナ国立歌劇場管弦楽団の「第9」

音楽が好きでたまに記事を書いているが、実は音楽に救われた、支えられたという感覚や経験は、あまりない。精神的、身体的につらいとき、正直そういうときは音楽鑑賞や演奏どころではない。やはり趣味に没頭するには、安定した日常生活や社会の安寧がある程度保障されていることが望ましい。昨今の新型コロナウイルスなど、そうした状況判断がようやくできるようになってきたと思っている。とは言えまだまだ予断を許さない。

そんな状況の中、今年2月にまた暗雲立ち込める事態が起きた。これは他人事ではない、新たな戦争の序章だなどと声高に主張したりはしなかった。だが報道や生活を見渡すと確実に身の回りにも影響を及ぼしている。


果たしてこのようなときに、私などよりもっと切迫した状況の人々にとって、芸術に身を捧げることが如何に困難か。その一端を考える機会にもなるのではと、指揮:ミコラ・ジャジューラ・ウクライナ国立歌劇場管弦楽団の演奏するベートーヴェンの交響曲第9番の演奏会に行くことにした。日時は12/29・東京オペラシティ。

例年バレエやオペラの公演に併せて年末に第9を演奏しており、かねてから聴いてみたかった。まさかこのようなタイミングになるとは思っていなかった。今年は特に前述の理由に加え、「このオーケストラを日本で聴けなくなるかも」と真顔になる瞬間があったことも思い出す。

ところが演奏会に行くと、まるでいつもの日本の恒例行事の雰囲気で、拍子抜けした。と同時に嬉しくなってしまった。少なくともこの日この演奏会は、音楽に向き合う演奏者と観客のための時間だった。少なくとも私は、いつものようにベートーヴェンを聴くことができるのだと心が弾んだ。

演奏の感想だが、第9の演奏はとても正攻法だったと思う。第1楽章、第2楽章はティンパニの強調が心地良く、音楽のスケールは大きく残しつつテンポはダレない好演。快速過ぎてせせこましさを感じたり、響きが物足りなくなることはなかった。指揮で大見得を切るようなルバートもない。各パートの安定ぶりもその印象に寄与していた。余分な力みがなくとても自然体なのだ。

その流れで演奏される第3楽章はとても美しく、この日最も印象に残った。ホールも良かったのかもしれないが、このような安らぎのひとときがあるのも第9の魅力の一つではないだろうか。余談だが、当日も散見された第3楽章辺りで睡魔に力尽きてしまった向きには、ぜひともこのことに気づいて欲しい。次がお楽しみなのだろうから。そして第4楽章。今年はウクライナ国立歌劇場合唱団も来日して歌っているのだが、この合唱団が良かった。声量があり声がよく通る。オーケストラやソリストとの一体感が素晴らしい。日本の合唱団ではちょっとないような体感だった。第9はオーケストラだけでなく、海外で実績ある合唱団と一緒に来日・演奏するときが狙い目だ。


アンコールはなし。拍手は盛大だったが、終演後も特に普段の演奏会と変わらず退場。つい先程聴いた音楽のことを思い返しながら帰途につくことができた。大げさかもしれないが、芸術に奉仕する姿を見せるのに余計な演出は要らないし、求めるものでもないのだ。このような、特別であって、特別でない演奏会を暮れに聴けたことに改めて感謝したい。来年も僭越ながら芸術というものに、自分なりに触れていこうと思う。


邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『すずめの戸締まり』の感想

11/11から公開中の映画『すずめの戸締まり』(公式サイト)を観てきたので感想です。公開から一ヶ月以上経ちますので、ネタバレも含みます。

※画像をタッチ・クリックすると予告(YouTube)が再生できます。

それにしても今回、実は公開初日に観に行ったのですが、久々に満席の客席で観ました。ただ残念ながら上映中の独り言とおしゃべりに近いはしゃぎ声にげんなり。特に台詞を繰り返すタイプの独り言は勘弁してほしい。隣の席だと鬱陶しいことこの上ない。こういう事態を避けるために、話題作は公開後客足が落ち着いてから観るのもアリだなと再認。今の時期に悠々と足を運ぶお客さんの方が、”通”というものかもしれません。

映画『すずめの戸締まり』の感想

これだけ宣伝しているので『君の名は。』といった過去の作品とも比較するが、本作が作品として最もまとまりが良い出来だと思う。ただそれは主に、作品の発想やスケールがこじんまりとした、という意味においてである。

平成あるいは昭和の時代を思い起こさせるノスタルジー要素に市井に働く人々、それも決して楽ではないサービス業の描写、日本の古典芸能をヒントにした設定、そして震災というテーマ⋯。作家性や作品性よりも、よく流行りをリサーチしているね、良いブレーンも揃っているのかなというくらい、近年の(アニメ)映画やドキュメンタリー作品と被る要素が目につく。実際の制作過程は知る由もないが、他の作品にない・得難い独創的な雰囲気は正直色褪せた。これらを本編に詰め込んだ上に、来場者に制作インタビュー・対談中心のパンフレットをプレゼント(これも昨今の定番戦略だ)してまで作品外の補完も怠らない。観客が望む望まないにかかわらず、こういう風に観てね、と道筋まで示してくれるのだ。ある種の守りに入りだしたとも言えるのではないか。

ストーリーはとても明快になった。冒頭の画を観ただけで前述のテーマが読めてしまった向きも少なくないかと思う。そもそも美術、映像が一連の作品の売りだったので、何が描かれているか注目するのは自然である。そうでなくとも序盤の旅程で早々に気がつくことだろう。個人的に、公開後早々に感想を書かなかった理由がここにある。一言で済むレベルのネタバレなので、公開直後に発信するのはいくらなんでも無粋だと思ったのだ。

これら本作の流れがわかってしまうと、例えば旅の途中で触れ合う人々との交流も予定調和のような温かさだ。穿った見方はしたくないのに、「助けてくれるんだろうな」という期待を裏切らない。接客業、水商売、あらゆる観客層に”刺さる”ような職業をチョイスしたようにすら思える。前述の通り、まとまりの良さがかえって展開に波乱を期待させてくれないのだ。現代という時代背景であることを加味しても、旅程に面白みは少ない。

ではストーリーに大きく関わる草太の生業はどうかというと、テーマありきで仕立て過ぎた感がある。いかにもアニメ的、漫画的とでも言うか、ここぞというシーンでの神性は薄い。コミカルな面を強調するのは悪くないが、胸のすくような術や技の披露といった落差を感じることはない。主人公の鈴芽に救われる役目である一方で、鈴芽にとってかけがえのない存在というにはキャラクターの造形含め、物足りないと思う。展開の中心となる鈴芽の生い立ちに対比して、彼の”災い”に対する背景は鈴芽のリアルさ、生々しさに比べるとどうしても前述の理由で浮いてしまう。お決まりのようなハッピーエンドには、救いよりも取ってつけたような感がある。

これは震災、とりわけ3.11を前面に描いてしまった影響も大きい。テーマが悪いのでは決してない。鈴芽の行動も含め、エンターテイメントとしての立ち回りが現実や事実を基にしたテーマにかき消されるのだ。鑑賞後はシーンやストーリーよりも過去や現在の世界に目が向けられてしまい、作品自体の印象まで薄まる。この点において、大ヒットした「君の名は。」の方がドキュメンタリーではない創作として災害を描いており、映画としては意欲的で面白かったと思う。本作の中でそのくらい3.11の存在は大きい。

だがそもそも災害という観点で見れば、現実世界で我々に降りかかる災害は3.11に限らず、数え切れない。例えば3.11と同じ頃起きた地震が他にもあり、その被害だって我々は知っているはずだ。もちろんこの例に限らず、災害というテーマのレンジは殊の外広い。自然災害に限らないし、世界に目を向ければ言うまでもない。

そんな我々に今だからこそ喚起するのであれば、例え3.11を主眼に置きたかったとしても、テーマとして消化した上で、まだ見ぬ世界(観)に何が起こるかわからないストーリー、キャラクター、設定を以て表現してほしかったというのが正直なところである。普遍性や強いメッセージはその方が表出したのではないか。もちろん既存作を超えるべく、である。今回MVかと思わせんばかりの歌の挿入は少なく、良くも悪くも印象に残らなかった。そう言えばクドすぎて冗長にすら思えたキャラクターの独白による心情描写も抑えられており、映画として洗練されてきたのを感じる。一方で作品の出来栄えとしては何とも平凡な気がしてならない。


最後に映像表現は今回特にこれといって目を見張るものがなかったように思う。目が慣れた、だけでもないと思う。前述の通り、ドキュメンタリー要素故にそうしているのかと推察する。また戦闘シーンにおいて、他作品での既視感が勝る表現がかなり目につき大変がっかりした。昨今のアニメ(映画)のメディアの賑わせ方からして、同じことを思った向きも少なくないのではないか。敢えて作品名は書かない。そんなこともあり、あまり映画として繰り返し鑑賞したいとは思わない作品だった。


邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『ぼくらのよあけ』の感想

10/21から公開中の映画『ぼくらのよあけ』を観てきたので感想です。事細かには書きませんが、ネタバレは一応ありです。最近この手のSF、宇宙物をよく観ている気がします。

※画像をタッチ・クリックすると特報(YouTube)が再生できます。

原作を読んだ上での鑑賞・感想ですか? 答え:いいえ

原作を読んだことはありません。実は原作を知っていて鑑賞するアニメ映画はほとんどないです。原作の下調べ、ヒットしているのかどうかもあまり気にしません。小説だろうがコミックだろうが、何か光るものがあって映画化されたのでしょうから、まずは映画として面白ければ問題ないと思います。

映画『ぼくらのよあけ』の感想

現代と変わらなそうで結構進んでいる、ちょっとありそうな未来が舞台。それでいて寝坊したり、慌てたせいでベッドから落ちたりするのはアニメや漫画の古典的な表現だ。こういった表現に関して、本作は破綻なく進む。よく言えば落ち着いた作品、悪く言えば没個性だ。これといって目を見張るようなシーンはないと思う。

前述の未来世界に加えて、メインとなる”未知との遭遇”も映像や展開のインパクトで押さない。特に中盤以降の、宇宙への帰還に至るまでの障壁を乗り越えていく様に手に汗握ることはない。役に立つ”ガイド”もいるし、どうにも予定調和が過ぎて冷めてしまう。

その中にあって、同級生・真悟の姉の存在といじめのエピソードがストーリーの本筋に対して物凄く雑味に感じる。正直アクセントにもなってなくて大いに疑問。下衆の勘繰りだが、一頃見かけた”学校生活の生々しさ”描写を入れてウケを狙ったのか、とすら思う。そういえば団地という舞台や平成初期・昭和を意識した映像の挿入といったノスタルジーを煽る要素もその一環か。

宇宙の問題に比べれば人間関係・いじめの問題など、些細なはずなのに我々は日々悩み、解決できていない。明確な解法もない。意図としてその程度は読み取り、想像はする。劇中で仲直りして、解決してハッピーエンドにしてくれ、というわけでない。作品の方向性に対して、不要だったと思えるくらい、添え物の程度の浅い踏み込みなのが問題なのだ。その上最後までエピソードが何となく影を落としてしまうのでタチが悪い。このエピソードを覆すような展開もカタルシスも途中ないのだ。それなのにロクに後日談すらない。つくづく必然性を感じなかった。

これを映像化するくらいなら他のメインキャラの造形や胸に期するものを描く時間に割いたほうがよほど感情移入できたと思う。そもそも6年の銀之介のキャラクターは希薄だし、前述の真悟にしても姉との関係を描くならもう少し背景にスポットを当ててよかったのではないか。真悟は一度メンバーから離脱するので尚更そう感じる。かつて断念せざるを得なかった親たちの存在と行動も同様だ。敢えて真悟が団地の屋上から落ちそうになるイベントをきっかけにしなくても別なアプローチができただろうし、子供と協力してもう一度⋯といった展開が中盤の盛り上がりに寄与することも考えられただろう。

そして何より、オートボットとの出会いと別れを表現するに、それら過去から現在へのリンクを劇中でダイジェストでしか描ききれていないのが痛恨。科学的な知識や小ネタは楽しめたが、これでは帰還に至るまでの過程を見せられても感動に至らない。映画の尺の都合でこのような中途半端な描写になったのなら残念だが、もしこれが原作通りとしたら、原作の技量に問題がある。

そんなところで最後は宇宙に帰れてめでたしめでたし⋯なのは予期していたが、どうも釈然としなかった。


映像、音楽面は普通。高いレベルで最近のアニメ映画のクオリティは満たしている。キャストの演技も特に不満なし。だがどうも映画を観ただけでは、もう一度観たい、原作を読んでみたい、とまでは思わせてくれなかった。

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