デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

指揮者・宇野功芳の芸術

ニュースになって世間が騒ぐタイミングではなく、その前後で粛々と話題にするのが好きである。偏屈と言われるだろうが、人と一緒になって騒ぐのが生来好きではないし、話題より自分が目立ちたいだけ、などと思われたくない。何より自分にとって一過性で済ませたくない話題は大事にしたい。
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今月、6月20日発売号を以てクラシック音楽・ディスク情報誌の『レコード芸術』が休刊するそうだ。そのニュースを見て評論家、いや指揮者・宇野功芳を思い出していた。「そういえば6月(10日)だったな」と。


演奏(家)の好き嫌いなんて、10人いれば10人違っても大いに構わない。ぼくが誌面での評論家・宇野功芳から学んだことだ。人に勧められるがまま鵜呑みにしたり、他人の評価を気にして好みを見つけられない方がよほど浅薄ではないか。だから『レコード芸術』はムック共々専らカタログ扱いしていた。ディスクの推薦・非推薦など、どうでもよかった。もっとも、それだけなら「宇野功芳」の名前を今まで記憶に留めることもなかった。ぼくが氏に注目したのは「自らも指揮活動をする」という点で一線を画していたからである。

別の記事でも度々話題にしたが、ぼくは指揮者・宇野功芳がとても好きである。考えてみてほしい。クラシック音楽好きが高じて「私が大好きな〇〇を”俺ならこう振る”で指揮してみました」という人が世間にどれだけいるだろうか。せいぜい感想やレビューをこうしてネットに書き散らすか、身近で話の種にして終わるのが大半ではないか。そしてそんな少数の実演できる人の演奏は少なからず商品化される。営利目的でも何でも、商品化されるとこうして今でも聴ける。その真価を問い続けることができる。もう、そのことからして尋常ではないのである。そういう人物を発見できたことについて、『レコード芸術』にはやはり感謝するべきなのだろう。


前置きが長くなったが、そんな指揮者・宇野功芳と新星日本交響楽団の一連の演奏が『宇野功芳の芸術』(キングレコード)としてボックス化されている。限定盤だそうだが、現時点でまだ買えるようだ。

宇野功芳の芸術

宇野功芳の芸術

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実はここに納められたベートーヴェンは出来不出来の波がある。第9はとても良い。生前指揮者が苦心していると語っていた第1、第3楽章は聴きものだ。特に第1楽章は冒頭からしてゾクゾクする。時間を忘れる、重厚で聴き応えある演奏だ。第4楽章の歓喜の主題に入る箇所は何故かコブシを効かせ過ぎているが、合唱も良いし、全体としては荘厳な楽曲の進行に思わず唸ってしまう。歓喜よりも感傷的な雰囲気がある。もちろん真意は不明だが、生前最後に演奏した交響曲がこの曲だった理由を察してしまう。その最晩年の大阪交響楽団との演奏も同解釈で、録音が良く甲乙つけがたい。


一方で第7など、生前の指揮者の言葉を借りればまさに「やりすぎ」といえよう。作為的で、拍子抜けするような仕掛けが目立つ。これは晩年のライブの方が一気呵成の演奏でオケ共々燃焼しており充実している。演奏を重ねて、第9とは異なった境地に達したのかもしれない。


一部紹介した晩年の録音の中にはアマチュアオーケストラとの演奏も多く、確かに演奏の精度が気になる箇所はある。また実演ではもっと良かった、あるいは悪かったということがあるかもしれない。だが、そういった技術的な問題や録音環境を突き抜けた熱意や解釈のほとばしりを理解したとき、それがディスクから少しでも伝わったとき、それもまた芸術というのではないのだろうか。発売された『芸術』から聴き直していくと、そんな発見が少なくない。

指揮者・宇野功芳の演奏を一口で語ることはできない。比喩的な表現で片付けることもしない。聴かないで評するのは論外だ。ぼくは、ひとつの芸術の在り方を伝導してくれた指揮者として、宇野功芳の録音をこれからも聴いていくと思う。そしてそんな芸術との出会いをまだまだ求めていきたい。それは誌面でなくとも、今ならもっとできるはずだ。

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