デジタルエンタテイメント断片情報誌

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今更電子辞書の魅力を思う

電子辞書をここ最近趣味でも使っている。たまにはPCやスマホを気にせず、読書をしたい。そのときの調べ物用である。ネットで検索して「〇〇ってよく使いますよね? 〇〇の意味について調べてみました」といった定型文から始まる記事を一々読みたくないし、そういった下手な商売には加担したくない。権威主義ではないつもりだが、さすがにどこの輩が書いた記事か、信頼の置ける内容か吟味するのも無駄な時間だ。

もちろん、ジャパンナレッジのような有益なサイトもある。だがそれほどの用事ではない。それは私の記事を見ていただければわかるかと思う。用途別の辞書は既に数種類持っており、趣味で手元に信頼できる便利な情報源が置けるのはありがたい。当然文章を考えるときにも使える。
japanknowledge.com


最近の電子辞書は辞書やコンテンツがたくさん搭載されており、面白機能も多いのに、少し古くなると軒並み安い値段で買える。

私が使っているのはシャープのPW-A9300、9200である。発売から10年は経つので、もはや投げ売り状態だ。状態を気にしなければ数千円位もしないのではないか。搭載されている辞書を古本で買ってもこの金額では全て揃わないだろう。私が持っているのは画面に薄っすらヤケがあるが、それ以外は綺麗で満足している。

この電子辞書を選んだ理由は色々あって、まずタッチパネルがキーボード面にもついていて、使いやすい。タッチペン入力をするときに、手の角度が自然に使える。余談だがこれで漢字の書き取りをやると字が思い出せなくなっており、落胆する。

次にこのモデルまで、標準でテキストエディタ(テキストメモ for Brain)が搭載されている。JIS配列で文章をメモできる道具が欲しかったので願ったり叶ったりである。電子辞書は意外とこの機能がついてないのだ。テキストメモは後発のモデルでもコンテンツ購入することができるのだが、3千円近くかかる。それなら搭載している型落ちのモデルが得だと判断した。
brain-library.com

またPW-A9200はシャープのBrainシリーズで広辞苑を標準搭載している最後のモデルらしい。私はその情報だけで9200をついでに買ったのだが、実際に使ってみると広辞苑は案外使い出がある。古語に強いので、特に近代文語文を読むときに便利なのだ。古語辞典を搭載している学習用モデルだと広辞苑でなくてもよいかもしれない。この時代のモデルでも当然USBでPCに繋げるので、必要なコンテンツを購入して活用することもできる。


他にも使いこなせていない機能満載である。こういった商品は最新の情報を扱っていないと、という考えもあるだろうが、私の趣味の範囲では十分一線級だ。むしろ過去を知らずに昨今、進み過ぎている気がする。基本ネットワークに繋がっていない道具なので、道具が情報操作の悪意を受けることもない。そんなことも少し嬉しくて使っている。

発出した後、された後に『論語』

今世間のことがとても気になる。ニュースを慎重に見るようになった。だが草の根にまで新情報を求めてはいない。まして床屋政談ならば、既に各種メディアに溢れている。

気にしているだけでは有意義な自宅の過ごし方ではないと、普段の生活に加え、教養を意識するようにした。教養を意識する、とは何とも妙な文章だろうか。そもそも教養とは、意識せずとも自ずから湧き上がるような知ではないのか。要は普段、如何にそういった営みから外れているかわかる一文なのだ。


そんなことを考えながら、久々に『論語』(著:加地伸行 角川ソフィア文庫)を読み返していた。ビギナーズ・クラシックスの一冊だが、簡明でこの古典のエッセンスを逃していない文庫本だ。一日一言や、名言集といった体裁で読むより体系立てて読む方が有意義だ。

近年リベラル・アーツの重要性が注目されているようだが、今まで知らなかったもの、目新しいものだけに光るものがあるわけではない。知名度、学校で学ぶ機会も含めて、もっと取り沙汰されてよい古典だと思う。


読み返すと、今世の中で話題の事柄に絡めて発信したくなるような言葉が多く載っている。以下引用:

子曰く、古の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。


 老先生(※孔子のこと)の教え。昔の学徒は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていた。今の学徒は、他人から名声を得るために学び努めている。
(『論語』 角川ソフィア文庫 以下引用元同じ ※は注として追記)

どうも孔子の活動していた2500年くらい前から、人の学ぶ目的は変わってない様子。


そして孔子は知識や経験を蓄積して学ぶこと<学>だけでなく、思考すること<思>とのバランス、すなわち中庸の重要さも説いてるのだが、これも正鵠を射たものだ。

子曰く、中庸の得為る、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。


 老先生の教え。道徳における中庸の位置は、この上ないものだ。しかし、人々は中庸を欠いて[争いあって、もう]久しい。

ただ争うことの批判ではない。”中庸を欠いて”というところが肝要だ。ここは著者の解説が良い。

<学>ばかりで<思>がないと、ただやたらに資料が増えるばかりになってしまって、どう進んでよいのか、どう判断してよいのか、分からないままとなる。逆に、<思>ばかりで<学>がないと、客観的でなくなって独善的になり、冒険するような話になってしまって、あぶないことになります。

特に”あぶない”例文をSNSで無尽蔵に見つけられる気がしてくるのは私だけだろうか。


政治の話題にも『論語』は格好の材料だ。使い古されているという向きもあるかもしれない。前述の中庸や道徳を説いてた孔子自身でさえ、政治で失するところがあった。だからこそ、我々が得るものは少なくない。それこそ『論語』を多少なりとも知っていれば、巷に溢れる政治談義も馬鹿馬鹿しくなるのではないか。以下引用:

子路(※孔子の弟子)政を問う。子曰く、之に先んじ、之に労す、と。益(ま)さんことを請う。曰く、倦(う)む無かれ、と。


 子路が政治とはなんでしょうかと質問したところ、老先生はおっしゃった。「先頭に立って働くことよ」と。[あまりにも簡単だったので]もう少し詳しく御説明をとお願いしたところ、老先生は[さらに簡潔に]こうおっしゃった。「続けること」と。

子曰く、苟(いやし)くも其の身を正しくせば、政に従うに於いて何か有らん。其の身を正しくする能(あた)わずして、人を正すを如何せん。


 老先生の教え。もし為政者が自分自身を正しくしたならば、行政はたやすいものだ。自分自身を正しくすることができないで、人々をどのようにして正そうとするのか。


ここで最近の政治の出来事など思い浮かべてみたい。例えば1都3県に対して出したものなど、どうだろう。前後の政府や政治家の行動、対策はどうだっただろうか。この言葉を2500年前からの叱咤激励ととるか、今だ通じるなんて、人類って進歩しないな、ととるか。

もちろんこれは我々、出されたほうの実質も問われている。個人が気楽に発言、発信できる世の中になって、果たして我々はちゃんと学び、考えているだろうか。孔子の説く”中庸”を疎かにしていないだろうか。自戒も込めたい。


ここまで書いて、最後は「紹介します・調べてみました」「いかがでしたでしょうか」形式で記事を締めるつもりだったのだが、迂闊にもこんな記事を書いていること自体に老先生は手厳しいのを忘れていた。『論語』がもう少し血肉となったら、こんな記事を思いつかなくなる⋯のだろうか。

そんな無意識に働く教養に辿り着くに、まだまだ先は長い。

子曰く、道に聴きて塗(みち)に説くは、徳を之れ棄つるなり。


 老先生の教え。受け売りするのは[無責任であり]、自分で不道徳となってしまうことだ。

非常時に非常時の食事に寄せて

自宅で仕事をするようになったのだが、むやみに外に出るわけに行かない。最低限の買い物以外はどこにも出かけない。元々それほど外出する性分ではないので、家にいることの窮屈さはさほど感じなかったものの、ある種の緊張感はそれなりに持続させてきたつもりだ。

そうなると何か楽しみが欲しくなる。今必要なことで、問題ないこと⋯。大変月並みだが食事に目が向いた。自炊できる時間も増えたことだ。だが、所詮は気が向いたらレシピを見て、程度の料理レベルなので、続かない。早くもレパートリーが一巡した。

元来食事という行為は好きなのだが、ここでふと「もし毎日同じような献立の食事しか摂れない決まりになったらどうするか」みたいなことを考えたりする。

うーん、飽きたと思う日もあるだろうが、そのうち諦めがつくだろうな。多分そのときは自分の置かれている状況が”普段””日常”ではないだろう。


いや、もしや今ってそんな状況に近いのでは、そう思って読み直した本がある。『戦闘糧食(コンバット・レーション)の三ツ星をさがせ!―ミリタリー・グルメ』(著:大久保義信 光人社)である。

世界各地の軍隊、部隊に所属する兵士が最前線で食べる食事、携帯や調理の簡単な缶詰などの戦闘糧食(りょうしょく)を紹介した本だ。新装版になる前、20年くらい前から刊行されている。古本でも安価で手に入れられると思うが、店頭では案外見かけない本である。多分手にとって読むと面白くて手元に置きたくなるからではないだろうか。

今やインターネットで同コンセプトのWebサイトを容易に見ることができるが、扱っている国の数(日本含めて22ヵ国)と味含めた紹介の丁寧さは書籍として読むに足る。特に実際に現地に赴いて、現地の状況や兵士の様子を伝えているのは耳学問で終わらせない説得力がある。最新の状況と比較するにも便利な出典になるだろう。

ここに載せられた数々の糧食は一言、食べてみたくなる。とは言え世界の物流も大混乱の今、単なる気晴らしの通販利用は忍びない。そこで近いものを買って真似してみる。その代表格がクラッカー、ビスケットである。

携帯食として説明は不要かと思う。世界各国の糧食で登場するクラッカーやビスケットは、所謂パン代わりだ(パンが糧食に含まれる国もある)。これにおかずや様々な塗り物をつけて食べる。最近は「食事したいけど、あまり量は食べたくない」ときが増えたので、これが楽しい。朝はパンからクラッカーに切り替える勢いだ。クラッカーも色々種類があるので各自調べてお気に入りのものを探すのをオススメする。



そんな一時の楽しみを与えてくれる本書と食事だが、久々に読み直してある箇所が目に留まった。日本(陸上自衛隊)の頁である。

陸上自衛隊は現在でも「飯ごう」を装備しているが、レンジャー部隊や訓練教育以外で炊いたり煮たりは基本的にしない、とのことだ。食器としての利用なのである。このことに関連して以下引用:

かりに日本有事となった場合に、陸自隊員個々が日本国内の塹壕や陣地内で飯ごう炊飯をしなければならない状況というのは、もはや末期的な有り様のハズだ。

この箇所が今の状況と照らし合わせて全く無関係で、有り得ない未来だと、どうにも考えづらい。こんなときだから食事にでも楽しみを、と思ったのが発端だが、裏を返せばまだ楽しみを求める余裕があるとも言えまいか。例えば近頃「気の緩み」という言葉をよく見かけるが、今を取り巻く問題はもっと以前から横たわっていて、根が深いのではないか。


食事の興味はそこそこに、日常に少し襟を正したいと思う。

記入もチェックもミスなく そしてナメない

進学や就職といった新生活を始めると、書類に記入したり、文書を作成する機会が増える。届出書、申請書、報告書⋯。何度も書き直したり、記入漏れがあって期日ギリギリの手続きになった経験もあるのではないだろうか。この時期そういった書類を頻繁にチェックしている向きもあるだろう。

これら作業を”事務”と言うのであれば、一時的、時期的な事務もあるし、生業としてずっと付き合う事務もあると思う。終わった途端、「もう当分やらないな」という事務も少なくない。

しかし今、時期や職種に関係なく、そんな事務に取り組まざるを得ない状況の人が多いのではないか。例えばこれである。

少し前にこの申請書の記載ミスが話題になった。それも申請者だけでなく、処理をする市区町村側でもミスが発生したそうだ。私はまだ手をつけていないが。


そのニュースを見かけて、ある本を思い出していた。正確には、普段仕事をしているときに度々思い出していた。ちょうど話題が重なった、というべきか。『「事務ミス」をナメるな!』(著:中田亨 光文社新書)である。

「事務ミス」をナメるな! (光文社新書)

「事務ミス」をナメるな! (光文社新書)

  • 作者:中田 亨
  • 発売日: 2013/12/13
  • メディア: Kindle版

流行りに乗った扇情的なタイトルだが、とても丁寧な内容である。個人的にはタイトルで印象を下げている気すらする。私も今回は記事タイトルに拝借したが。人々が携わるであろう様々な事務におけるミスを整理し、対策を提示し、実例を挙げている。


第1章の『人は「有能」だからこそ間違える』からして、人間の知的能力、処理能力だからこそミスは起こると説いている。勘や慣れ・経験は危険、というわけである。以下引用:

 消去法は素早い決断のためには非常に有力な手段ですが、我々はそれを過剰に使ってしまいます。明らかに間違った選択肢を排除すると、残った選択肢がさらに良く見えるという錯覚をするのです。

 人間は、繰り返し練習することで、難しい作業であっても巧みに素早くできるようになります。しかし、この能力が仇となって、ミスにつながることもあります。


またこの点に関して、論理の話題を絡めているのが大変得心が行く。以下引用:

【例題】
 友人が部屋の中に青いカバンを置き忘れたとします。あなたがその部屋へ行って、青いカバンを見つけたら、忘れ物として友人のところへ持って行くことでしょう。
 これは正しいのでしょうか?

先に論理の話題と書いたので、察しが良い御仁ならばすぐに「正しくない」と答えるだろう。「友人の忘れ物は青いカバン」だが、「青いカバンならば友人の忘れ物」とは限らない、である。


とは言え、日常ならば「ああこのカバンか」と何の疑いもなく持って行くところだろう。一々前述したような考え方をしていると周囲から「面倒臭い奴」と思われることもありがちだ。だがそこにミスの対策がある、と本書は言うのだ。少し話がそれるが、論理の切り口はこんなところでも役に立つことがわかる。

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こういったミスを防ぐための解決の道筋や具体例の中で、第10章の『氾濫する「ダメ書式レイアウト」』が痛快なので最後に紹介しておきたい。

内容は読んで字の如くだが、章冒頭から”劣悪なレイアウトが事務ミスを生んでいる”と断言している。2000年の米国大統領選挙の投票用紙を例に、伝統的に使われていた間違いにくいレイアウトや書式を無視したダメなレイアウトが氾濫しているというのだ。

そうならないよう、申込用紙やチェックリストの欄は書き込み順通り一直線にする、特定の部分が目立つようにポップアウト効果をつける。そんな基本を満たした優れたレイアウトの一例として、アメリカの税関申告カードを挙げている。以下引用:

 申告物品の有無を尋ねる欄では、「はい」「いいえ」のチェックボックスの横位置を揃えてあります。これならば「はい」のチェックの存在が非常に目立つわけです。係官はカードを一瞬見るだけでも、回答状況を把握することができます。


私が付け加えることは何もない。よく読まないと、申請する方も間違えて、チェックする方も「この申請内容でよいのか」と迷ってしまうような書式では⋯というわけだ。大体、希望”されない”方にチェックを入れるのではなくて、質問するなら「希望しますか? はい・いいえ」じゃないのか。

なにやら耳が痛くなってきた。明日は我が身だと思って、事務に勤しみたい。

知らない街を歩いてみたいか

歩いてみたいからといって、すぐ行けるとは限らない。そして遠くとも限らない。どうぞ、と勧められて是非是非と言いたくなる場所とも限らない⋯。

今回の話題は旅行の話、観光の話から切り出したい。

普段から海外在住・旅行ブログを読むのは好きだ。ただ今回は、ちょっと経緯から話して、前置きをしてから入っておきたい。そういう発信方法が可能で、そのための時間も取れるSNSでだからこそ、である。書き手と読み手の認識、理解のズレ、これには注意を払っておかなければ。

なんだか物々しすぎか。


かつて日本テレビ系列で放送されていた『ブラックワイドショー』という深夜番組があった。これが通常のニュースはもちろん、ワイドショーでも扱わないB級ニュース、ゴシップ記事を「面白おかしく」紹介する番組だった。出演者も個性際立った、当時にしては、ものによっては今見ても攻めた番組だった。

その中で異彩を放っていたのが、北朝鮮の話題である。律動体操の紹介やマスゲームの映像も衝撃を与えたが、山梨学院大学の宮塚教授(当時)が登場する北朝鮮”グッズ”紹介に惹かれた。収集物は日本でも身近な日用品が中心だが、一筋縄ではいかない絶妙なチョイスだった。そこから推理される北朝鮮の日常生活は、番組の趣旨にとどまらない卓見だったと思う。

このコーナーの雰囲気は今でもDVDで伝わる。ちなみにこのDVDは再生後のメニューも何もない。本放送時の垂れ流し感が良く出ている。


あれから15年以上経ったが、今、北朝鮮について何を知っているのか。ともすれば当時より偏った見方をしていないだろうか。思うところがあった。

観光を通じて北朝鮮を知る

昨年、ある本が出版されて目に留まった。北朝鮮を観光産業とその歴史から読み解く『北朝鮮と観光』(著:礒﨑敦仁 毎日新聞出版)である。

北朝鮮と観光

北朝鮮と観光

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北朝鮮の情報は、今やネットを検索すれば”公式”サイトも見ることができる。個人、それも日本人の旅行記も容易に読める。誤解を恐れず書けば、現代の秘境に行くような感覚だろうか。

しかしながら現況、ツアーとして定められた場所を回ることはできても、一般人が観光という目的の範疇から大きく外れて旅することはほぼ不可能だ。例えばレストランに行くにも現地の案内員と運転手が同行することになる。著者は北朝鮮に行ったことがあるそうだが、やはりフィールドワークには限界があるという。

そこで著者は本書で、公開情報(オシント。open-source intelligence)を通じて得た観光情報を以て北朝鮮の実態を解き明かすことを目指している。詳細な注釈・出典が各項の末ごとに入っており、本の末尾を都度めくることなく参照しやすい。出典を調べていけばさらなる理解や疑問も湧いてくるだろう。また日本と北朝鮮という関係に加え、日本以外の諸外国と北朝鮮はどうかという具合に認識を新たにし、視野を広く見直すという点でも読む価値があると思う。

本書の帯には”日本人の知らない、本当の北朝鮮がここにある!”と宣伝されているが、実際のところは「日本人が知ることのできる北朝鮮の情報がここにある!」という体裁で書かれている。だからこそ、有用なのである。

手軽に読める北朝鮮観光の本から

併せて『北朝鮮と観光』にも載っている、関連本を少し紹介しておきたい。まず、『旅の指さし会話帳42 北朝鮮(朝鮮語) 』(著:西嶋龍 情報センター出版局)。

「おいくらですか?」といった、旅先で使いそうな会話のガイドブック北朝鮮版だ。持っていくと没収されるという話がある(大丈夫という話もある)上に、そもそも使用される機会が最も少ない会話帳かもしれない。それでも朝鮮語と韓国語の違いや単語の解説は興味深い。参鶏湯(サムゲタン)を北朝鮮では「タッコム」と言うそうだ。


Kindleで読める本としては、先に紹介した著:宮塚利雄の本がやはり面白い。『誰も書けなかった北朝鮮ツアー報告』(小学館文庫)は90年代初期に北朝鮮を訪れた際の旅行記だが、読んでおいて損はない。平壌市中心部のマップつき。

まず90年代の旅行事情を知るといった前提で読むのがよいと思う。しかし朝鮮語、韓国語といった言語だけでなく、朝鮮半島の事情に通暁している著者の視点は、今読んでも色褪せない内容が多い。通史としての解説は一読の価値がある。視点も素朴ながら鋭く、まさに学究肌である。さらにツアーでありながら、先に書いた”フィールドワークの限界”に果敢に挑む著者の行動力に舌を巻く。朝鮮鉄道史を調べるために、平壌駅(※上の画像は駅の通路である。もちろんフリー画像)で切符を求めるエピソードが印象に残った。

著者は今だに北朝鮮関連のテレビ番組で見かけるが、その人柄を知っていれば多少なりとも驚く内容かもしれない。いやあの人柄だからこそ、研究を続けられているのかもしれない。


比較的新しい本であれば、『朝鮮よいとこ一度はおいで!: グッズが語る北朝鮮の現実』(風土デザイン研究所)が読みやすく、好事家向きといえる。

北朝鮮グッズ事情・最新版という趣で、基本ひとつの見開きページにつき一つの物・事象の解説である。話題の切り口も豊富で飽きさせない。機知に富んだ内容だと思う。

例えば”理髪店”のトピックでは、「金正恩が最も信用している人物は誰か」という答えを「理容師」とした上で、この調子である。以下引用:

料理師が食べ物に毒を入れる可能性もあるが、これは食前に入念な「毒見チェック」があるから、何とか毒殺だけは避けられるが、理容師は、ハサミだけでなく、カミソリも使用するので、いくら屈強なガードマンが付いていたとしても、凶事は瞬間的に発生するので、金正恩は理容師を全面的に信頼するしかなく、そのような信頼関係があってこそ、あのような特殊なヘアースタイルが誕生するのである。

ジョークはわかっているが言い得て妙で、確かにあの髪型にカットしている理容師はいかなる人物か、というのが気になってくる。料理人などは度々話題になるだけに尚更だ。また「退廃思想にかぶれた髪形」(長髪)は禁止されているそうだが、その気になればお付きの理容師は現代最新のヘアースタイルにも調髪できるのだろうか。興味は尽きない。



最後はこうして気楽に締めくくろうと思っていても、ふと現実に戻ると本当に生死が話題になっている。そして方方で議論になっているが、現実に「見た」人の話など、とんと聞かない。自身の浅学は認めるにしても、「知ること」とは一体何なのか。実際に行ってみれば済むものでもない。この話題には慎重かつ、たゆまずに向き合いたい。笑って、茶化して、皮肉ってでは、どうにもいられなくなった。

まずは問題集と読書術から 哲学入門に入門 序

哲学に入門したい。この世の思考や思想に改めて触れていきたい。学生時代の授業、あるいは教養科目として選択したことはある。興味は湧いた。それでもすぐに頭から抜け落ちた。その後試験のために勉強することもなかったと思う。いや、少ししたか。記憶も定かではない。

世情は一旦置いておいて、自分の生活は最近落ち着いてきている。ようやく趣味・余暇のために必要な時間を調整できるようになった。そこで思い浮かんだのが、考えたい、である。もっとも、そんな大上段に構えたいわけではない。こうしたブログの記事や文章の一つに、読書を通じた哲学の話題を遅ればせながら添えていこうと思う。


こんな風に書き出してみましたが、きっかけは些細なものです。哲学に関する書籍、とりわけ”入門書””優しい解説書”とされるものが書店に溢れているからです。昨今、特にビジネス界隈で教養・リベラルアーツの重要性が取り沙汰されている様子なので、「ははぁ、なるほど」と思ったわけです。

私はクラシック音楽を聴くのが好きなのですが、クラシック音楽界でも”入門”や”はじめてのクラシック”といった趣向の書籍やコンサートが繰り返し並んでいます。インタビューで「普及」を度々口にする演奏家もいます。ですが、日本でクラシック音楽が大流行、メジャーになったという話は残念ながら一向に聞いたことがありません。

要はまだまだ普及してないんでしょうね。入口でちょっとかじって終わり。その先がもっと興味深く、面白いはずなのに。あるいは入口に何か問題があったのかもしれません。「もういいや」と見切りをつけたくなる瞬間が。もちろんクラシック音楽特有の事情もあるでしょう。しかし、私はここに、書店に溢れる哲学書籍に、同じ匂いを感じたのです。目的は冒頭に書いた通りですが、これは確かめてみたくなるというもの。

そこで、いろんな哲学”入門”本を読んでみようというわけです。何回でも入口に立とう、というわけです。初っ端から険しいスタート地点がいくつも用意されているときもあるでしょう。本の紹介はこれといった体裁を決めず、数冊選んで短評を並べるときもあれば、一冊のときもあるかと思います。

哲学入門に入門 序

大学受験用の問題集

今回は序ということで、読書するにあたっての準備の話。まず、基本をおさらいするため学習問題集に取り組んでみましょう。参考書をただ通読するより、解答も考えた方が思考を鍛えられて一石二鳥かと思います。解答の解説がなるべく丁寧なものを。多分新しい版でも書き込みのないものが投げ売りされていると思います。テストを受けるわけではないので、知らなかった箇所、間違えた箇所を調べて適宜繰り返しましょう。

また、大学受験の問題集をやることによって、今学校で教えている内容の確認もできます。学校教育、学校は要・不要かの議論が盛んですし、哲学の話題にも大いに絡みそうですから、多少なりとも知っていて損はない、いや知っておくべきでしょう。

ちなみに問題集の構成で目についたのは、

  • 西洋哲学だけでなく、東洋哲学についても一定の項を割いている
  • 日本の思想史・哲学史とその人物をちゃんと取り扱っている

この辺りは今後本を選択する際の参考にしたいところです。

”読書術”を読み直す

次に哲学の本を読む前に、読書術の古典を改めて。『読書術』(著:加藤周一 岩波現代文庫)。これを読んで読書をして本が書けるようになった人物が、また”読書術”を書いているのだろうな、という本です。種本、というやつですね。

優しい語り口ですが、著者の例えや体験談も実感がこもった、説得力のあるテクニックが満載です。新聞や雑誌、書評の使い方といった具合に広く言及していて、一言で言えば慧眼です。

中心となる”おそく読む「精読術」”と”はやく読む「速読術」”の話題については、道具を使ったり、眼の動きを早くするといった話に終止しているわけではありません。幅広い読者に当てはまる、現実的、実践的なものです。以下引用:

読み通すことのむずかしい本であればあるほど、一日に少しずつ読む工夫をたてる必要があります。

そして、それとは別に、もう少しはやく片づけることのできる本を、何冊か並行して読んでゆくということになります。


哲学の本を読み始める際に心強い内容もあります。以下引用:

私はできるだけ辞書を使うことにしています。たとえば哲学の本を読みはじめたときには、たびたび哲学辞典を参照しました。したがって、はやくは読めなかったのですが、そうして五年もたつと、おのずから辞書を参照する必要が少なくなってきて、同時に私の読書は、五年前とは比べものにならぬほどはやくなりました。長い目でみれば、結局そうしたほうが時間の経済になったと思っています。


一方で”むずかしい本を読む「読破術」”では、難解な本への取り組み方を丁寧で詳しく解説していく中で、読者にも然るべきことは要求しています。続きが気になったらこの章は各自読んでもらいたいです。以下引用:

むずかしい本を読んで、いや、そもそも本を読んでよくわかる工夫は、読者の側にもなければなりません。その読者の側の条件は、第一には言葉に関し、第二には経験に関しているといってよいでしょう。

”経験”はもちろん読書の経験、だけに限りません。ここが寛容なのです。


また”「読破術」”では、現代にも通じる、とても耳が痛い内容が載っています。有名な箇所かもしれません。以下引用:

ところが、字面にばらまかれた「かたかな」が、なにやら抽象的な概念を意味しているときには、それがほんとうになにを意味しているのかを決めることは、ほとんどつねに、たいへんむずかしいのです。「アンビヴァレンツな感情」「問題意識のアクチュアリティ」「中村真一郎におけるドゥンケルなもの」など。

ここ最近で、話題にもなりましたが、毎日のようにみかける「かたかな」で思い浮かぶものがありませんか。あるいは社会人なら職場で、仕事で、どうでしょうか。


本書は元々1962年刊行で、当時は高校生へ向けてベストセラーになるべく書いて、実際にベストセラーになった本だそうです(あとがきより)。私が読んだ限り、平易な表現で途中で詰まることはありませんでした。古典、という位置づけや出版社の印象で敬遠する向きがあれば、大変もったいないです。著者もあとがきで、”面白そうな本を読みつくすことは誰にもできないのです”と書いていますが、こういう本との出会いに感謝しつつ、哲学入門したいと思います。

海外から見た日本の日常を読む

ここ最近、日本だけでなく外国のことを気にしている。特にヨーロッパやアメリカの話題に触れる機会が増えた。とは言え人々の生活、日本との違い、外国から見た日本⋯⋯もっと身近な、生活に即した視点から知りたい。気恥ずかしいが平時はどうも目が行き届いていない。

だが例えば自分の趣味の範囲で映画『GODZILLA ゴジラ』(2014)を観ても、この作品に登場する日本の家屋には違和感を覚える。こうしてネットが当然になった現代においても、「まだ日本のイメージってこんなものなんだなあ」と言わざるを得ない。そしてそれは私のイメージする「外国」にも多分に言えることではないかと思っている。

GODZILLA ゴジラ(字幕版)

GODZILLA ゴジラ(字幕版)

  • 発売日: 2015/02/25
  • メディア: Prime Video

イギリス人が電車で相席すると天気の話題から始める、そんな内容の英文を学生時代に読んだ。受験頻出の名文だったらしい。ただ当時からして既に有名過ぎたのか、試験問題で見たことはなかった。実際に現地で内容の事実確認したこともない。


そんな私なので、海外在住、旅行ブログを読むのが好きである。中には自分のブログを読者登録している方がいて、恐縮だが楽しく読んでいる。そして”日本通”の日本、アメリカ、イギリス生活記が興味深い。『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート』(著:コリン・ジョイス 生活人新書)を始めとした著者の一連の新書がそうだ。

これらの本に登場する日本やイギリス、アメリカ社会の話題は手探り感満載だ。著者と、著者と話している日本人、どちらの心情もありありと思い描くことができる。

彼はぼくが「よろしく」と挨拶すると、”I am pleased to meet you”(お会いできてうれしいです)と完璧な発音で返答してくれた。ぼくは彼が英語を流暢に話せると思い込み、家族との会話の間、何度も彼に助けを求めた。やがて、ぼくは彼が話せる英語はたった一言だけだと理解した。


花見を素晴らしいと讃えた上で、著者の日本文化理解と人となりに親近感を抱く。

また花見は、新入社員に会社とはいかなるものかを教える上でも打ってつけである。「あそこに行って、仕事が終わるまで席取りをしてきて」と命じられることは、新入社員に組織がどのように動くものなのか、新人の才能はどのように活用されるものなのかを一瞬のうちに理解させることだろう。

ふだんから、ぼくが嫌いな酒の飲み方というのは、昼間から飲むこと、無理に飲まされること、わざと飲みすぎて大声を張り上げることなのだ。春の上野公園に行ってみるといい。どうしてぼくが、花見の席の酒を好まないか、すぐにわかってもらえるだろう。

別頁で”たいていのヨーロッパ諸国では、いまだにイギリス人とフーリガンは同義語だ”と著者は言うが、この箇所だけでも日本、日本人以外に対しても先入観や偏見が横たわっていることを考えさせられる。


アメリカ(ニューヨーク)に対しても著者のスタンスは変わらない。ショップに発音、日本人でも抱きそうな悩みが語られていて何だか安堵してしまう。

「サブウェイ」では手頃な値段でうまいサンドウィッチを食べられる。しかし、パンの種類やら挟む野菜、ドレッシングなど選択の幅が広すぎて、どぎまぎしてしまう。緊張のあまり、つい「ロースト・ビーフにマヨネーズ・ドレッシング、オリーヴ追加。スイス・チーズも入れて」という無難な注文になってしまうこともよくある。事前によく注文を練習しておくことが必要だ。

ここで発音についてひと言。”mocha”は「モカ」と読むらしい。スペリングのchにつられて「モチャ」などと発音してはいけない。ぼくはそれで一度、失敗したことがある。


アメリカ式社交術の頁での一例は笑ってしまった。日本(人)も含めた、あらゆる当事者の立場や意図、心境が一斉に浮かび上がるからだ。

(前略)ある日本人の家族が歓迎会を開いてくれたときのことだ。素晴らしい和太鼓の演奏に、ぼくはたいへん感激したのだが、続いて『小さな世界』、あの陳腐で安っぽいディズニーの歌をみんなで歌いましょうと言われて、せっかくの感激も台無しになってしまった。頭を抱えて、うつむこうとすると、なんとアメリカ人たちは、まるで一二歳かそこらの子どものように、楽しそうに歌いだすではないか!


今、世界の衛生環境、感覚に関心が高まっているかと思うが、著者のこんな憤慨がある。

 また、ニューヨークのレストランのトイレには、「従業員は、仕事に戻る前に必ず手を洗うこと」という掲示が出ている。こんなこと、わざわざ言わねばならないのだろうか。

掲示の写真も掲載されているので、まず本当のことだろう。日本との比較の話をしたいわけではない。読み直して、これほど神妙な気分になるとは思わなかった。


著者の観察眼は、平易でユーモアに溢れていながら後を引く、真摯なメッセージになっているものが多い。最後に日本社会の「和」について、”ガイジン”に向けた一文を紹介したい:

 あなたは日本人読者に向けてエッセイを書いている。あなたは意図的に日本について否定的なことを述べないようにするだろうか。それとも、正直に善いところと悪いところを述べて、自分の主張を理解してくれることを期待するだろうか。

”否定的”を”肯定的”に置き換えても同じことである。そして最近巷で見かける種々の主張を思い出しながら、”正直に善いところと悪いところを述べて”、この箇所に悶々としてしまうのは私だけか。

青春から”今”に通じるものは 亀井勝一郎『青春論』

青春について書かれた本を、「青春時代」とされる年齢の頃には、多分手に取らなかった。”中学生でもわかる~”みたいなタイトルの本を中学時分に敬遠していたのと似たような、ごく感情的なものだと思う。

ところが自分自身だけでなく、他人の生き方や考え方まで気になってくる齢になると、後戻りできないとわかっているのに妙に顧みたくなる。どれ、青春とはいかばかりのものか、というわけである。

そんな折に読んだ本で、感銘を受けた本がある。いやそれどころか、もっと早く手に取っておきたかったとすら思っている。『青春論』(著:亀井勝一郎 角川ソフィア文庫)である。

青春時代の衝動や感動を平易な表現で解説しつつ、若者のために日本の将来について語った随筆である。1950年~1957年に書かれた内容をまとめたもので、この文庫化が1962年(昭和37年)である。

この本に書かれた当時の日本が抱える問題、話題が今でも通用するのである。扱っている話題は恋愛にレジャーに芸術、国際関係から政治に憲法改正、働き方まで、「青春」を取り巻くものが一通り揃っている。これが当時の世相を汲んで書かれているどころか、現代の潮流までピタリと当てる勢いなのだ。当時と今がさほど変わらない、そんな衝撃も少なくないだろう。そしてそこに世の中を俯瞰する、バランスの取れたものの見方・感覚という、ごく基本的な所作に立ち返ることの重要性が示されている。青春論にとどまらない、その普遍的な内容に驚くかと思う。戦後間もない頃に書かれたとか、作者の経歴や思想・理想云々といったところで本書が着目、評されるだけではあまりに惜しい。今回はその辺りを踏まえた紹介をしたい。


とは言え書き出すと全て話題に出したくなるので紹介は最低限にとどめたいが、まず種々の「娯楽と消費」の感覚や流行、他者とのコミュニケーションや表現にまつわる話題から。今に続いている内容かと思う。以下引用:

快楽は刺激を求めます。最初に面白かったものは、次にはもう不満となる。この最もいい例はレビュー(※舞台芸能)であります。最初は厚着して踊る踊子に満足していた観客も、やがて彼自身の手で、その衣を一枚一枚はいで行く。そして裸体まで辿りついて、それでも満足しないというところまでまいりました。これは美的追求の進展なのでしょうか。それとも性的刺激の追求なのでしょうか。

節度の喪失は、現代人の一大特徴であります。

舞踏でも生花でも何んでも、早わかりの時代です。早くて、面白く、これが現代人のモットーであり、小説も映画も、それに答えようとしています。むろん頭が悪かったり、下手なためにのろのろしているのは困りますが、もし急速度化ということが、精神の上すべりを意味するとしたならばどうでしょう。

流行病はいつの時代にもあったが、極端な「ブーム」形式となったのは最近である。ブーム・ブームである。青年はこれに抵抗してほしい。およそ「ブーム」と名のつくもの「ベストセラー」と名のつくものは、敬遠した方がいい。一、二年たって、一般にもてはやされなくなったころ、しずかにその実質を検討してみることだ。

巷の話題の本質が、全てこれらに収束しているような気がしてならない。

そして表現する手段は増えたが、そのせいで昨今は”判断”の危うさが一段と露呈するようになっていないか。

私たち日本人は、興奮してくると、極限の言葉をろうしやすいという事である。当然かもしれないが、そこに見さかいなど全然なく、自分の気にくわぬ相手なら「赤」とか「バカ」とかそんな言葉をいきなり投げつける。大衆的になればなるほど、だれでもそうなりやすいだろうが、私たちはもう少し自分を訓練しなくてはならない。議論の是非はともあれ、静かに聞くべきは聞いて判断するだけの余裕がほしい。

 


また普段各種SNSを使っていて、政治の話題をあえて避けている向きもあるだろう。だがそういう人こそ頷きそうな、政治に対する考えを端的に表現している。これも現代の文脈で現れても何の違和感もない。以下引用:

 政治屋と称して、平生はこれといった職業もなく、たとえ職業があっても熱心でなく、ただ金と名声があるために、ひとつ代議士にでもなってやろうかという人が一番困るのである。

 政治のための政治が一番困るのである。政治は国民に奉仕するための技術である。支配するための術策ではない。この根本はハッキリさせておきたいものである。

 

日本(人)と外国に対する意識も冷静だ。これを「そんなことはわかっている」で果たして済ませられるのか、というのが我々の現況のように思う。著者自身の反省にどこまで追随できているのか、と考えることがある。平衡感覚、言うは易いが。以下引用:

 日本の美術や文学や科学が外国人にみとめられ、世界的に賞賛される事はむろん結構だ。わたしもそれを喜ぶが、しかし外国人がみとめなければ価値ないもののように考えて、卑下するとしたらどうであろうか。

 同時に私は別の危険をも感ずる。それはこうした劣等感や卑下にみずから反発すると、今度は逆にとんでもない優越感を抱いて、独善的になることである。

 とくに私はみずから省みて恥ずかしく思うのは「ヨーロッパ」に対して劣等感を抱く反面に、中国人やインド人や朝鮮人に対して、理由のない優越感を抱いてきたことである。

 


ここで評論家でもある著者の感動と批評についての考えを紹介しておきたい。個人的に文章を書いて伝えたいと思ったり、ネットを見て知りたいと思っているのはこのことだが、なかなか上手くいかない。皆さんはどうでしょうか。以下引用:

みんながほめていても、つまらないと思うこともあるし、また自分が感動しても、それを適当にいいあらわすことが出来ない場合もある。

 だからほんとうの理解とは、口に出してうまく言えるかどうかということだけではない。説明が上手だからといって、理解しているとはかぎらない。心の底ふかくおさめておいて、つまりは沈黙のうちに、うなずく場合だってある。

 そしてこの沈黙の肯定が一番深いのではないか。すぐれた作品はこれによって支持されてきているのである。批評家とは何よりもまず、この沈黙の代弁者でなければならない。そしてそれに適当な表現を与える事で、読者の心を代弁するものでなければならない。

繰り返すが、本書には世代を問わず、また永く繰り返し読まれてよい、普遍的な「青春」の極意が盛り込まれている。それは決して大仰なことではなく、まずは身近なことがらに当てはめてもよい。

流行りに飛びつく前に、話題の記事にヒートアップする前に、出どころが不明な情報を鵜呑みにする前に、SNSのプロフィールに唐突な思想・信条を並べる前に⋯⋯一呼吸でも入ればいい。行動を見つめ直したり、改めるのにもう間に合わないと躊躇することはないと思う。著者も以下のように本書冒頭で述べている。できれば、いやもちろん、私もそうありたい。

 人間は一生の間に、幾たびも生れ変らねばならぬものである。

1月の終わりに雪を見た

なにも珍しいことではない。雪が降らないことも、降ることも。地域による違いを雄弁に語りたいわけではない。

私にとって雪は、今だはしゃぎたくなる、冬の楽しみである。童心に帰るとは大げさだが、雪が降り出すと、どうにも外の景色が見たくなる。職場では平静を装っているが、内心窓に貼りつきたい。

日常的に雪に接していれば、雪はそんな心躍るものではない、そんな向きも当然あるだろう。そして雪から連想するものが楽しい思い出だけでなく、切ない記憶のときもあるだろう。


そんな雪への、ある思いが、ほんのささやかに溢れる一場面を描いている本がある。『南の島に雪が降る』(著:加東大介 光文社知恵の森文庫、ちくま文庫他)である。

南の島に雪が降る (知恵の森文庫)

南の島に雪が降る (知恵の森文庫)

大勢が決しようとしている第二次大戦中の昭和18年にニューギニア戦線へ召集された著者が、ジャングルの地で日本兵を鼓舞するために生来の俳優業を活かし、仲間とともに劇団を作り芝居に歌に奔走した話を書き留めた本である。

軍の上官から劇団に加わる人物、芝居にまつわるエピソードまで、虚飾のないテンポの良い文章に惹き込まれる。微笑ましく、可笑しいくだりも多い。一方で泥臭く、血なまぐさくもないからと気楽に読んでいると、戦場での死や先行きの見えない不安がさらっと語られる。それでも登場人物たちは自分たちの置かれている状況を賛美も批判もせず、それぞれの経歴や生業を活かして劇団に打ち込む。これもれっきとした、極限状況で描かれた”戦記”なのだ。

単純に現代に当てはめるようなことはしない。だが、昨今を取り巻く状況や、暮らしに仕事のことをここ最近意識することが多く、自分の足場を確かめたくて本書のことを思い出した。果たして彼らのように、日々を全うしているだろうか。何か口ばかり、言葉ばかり、鋭く先に進んでいやしないか、と。


さて、本書で登場する雪は、本物の雪ではない。雪など降らない地域で、芝居用にパラシュートと紙で作った雪だ。その雪が積もる舞台装置を前に、静まり返る隊があったという。東北出身で、雪のなかで育った者たちである。彼らは雪に、帰らぬ故郷を見たのである。彼らの郷愁は今もこうして、私が雪に魅入られる理由を増やしてくれている。


2月になった。今週末にかけても、寒くなるらしい。また、雪が見られるだろうか。

読書のための読書をして

自分の「読書の仕方」って、これでいいのかな? と考える人は世の中にも少なくないようで、古典から新刊まで常に書店や通販サイトに溢れている。私も見つけてはつい読んでしまう。

だいたいこの手の本はとても平易で読みやすい。そして文章が優しい。読んで読書に怖気づかないように書かれている。それでいて著者の採り上げる作品・読書遍歴は、いかにも一家言ありそうだ。その文章力も納得というものだ。

もっとも”読書法”本には傾向があって、

・ジャンル問わず色々読む

乱読せよ、というわけである。乱読をしていく中で、丁寧に読んだり多読になっても構わない。これが大方の読書好きの共通主張である。そして多くページを割かれているのが、

・古典の価値をもう一度考えて読んでみる

今どきの本も読み、自らも著作を残している人物が書くと、この主張は尚のこと説得力を増す。そもそも読書法を書くような人物は、面白い、役に立つといったレベルを越えて書物に接しているのだ。だからこそ現代まで残っている古典を何度も問い直す。


こんな傾向を踏まえた上で、最近読み直した読書にまつわる新書で記憶に留めておきたいものを今回は少々。


『喰らう読書術~一番おもしろい本の読み方~』 (著:荒俣宏 ワニブックスPLUS新書)。著者を知っている向きからすると入手困難な本ばかり紹介しそうだが、決してそうではない。

喰らう読書術 ~一番おもしろい本の読み方~ (ワニブックスPLUS新書)

喰らう読書術 ~一番おもしろい本の読み方~ (ワニブックスPLUS新書)

  • 作者:荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: ワニブックス
  • 発売日: 2014/06/09
  • メディア: 新書
前述の読書法を基本として、どちらかと言うと”おもしろい本”とその著者の紹介に徹した内容。古典に専門書、奇書の類まで、著者のアンテナとのめり込みが伝わってくる。それが一層知的好奇心をくすぐる。


『死ぬほど読書』(著:丹羽宇一郎 幻冬舎新書)はもっと実践的、実用的な読書法の本。日常生活やビジネスとのリンクも嫌味がなく、読書を始めたくなる内容。

死ぬほど読書 (幻冬舎新書)

死ぬほど読書 (幻冬舎新書)

  • 作者:丹羽 宇一郎
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2017/07/28
  • メディア: 新書

読書をしていてありがちな、難解な本に直面したときの堂々たる提言が良い。率直な表現で、得心が行く読者も多いのではないか。哲学者のエピソードを引き合いにして、以下引用:

自分が書いたものが他人にどう映るか、客観的な視点や想像力がどこか欠けていたかもしれないと思ったりしました。

 難解であるがゆえに深いものが書かれている。抽象度が高いものは高尚である。そんなふうに思い込んでいる人は少なくありません。
 しかしながら、それは錯覚です。やさしいことを難しい言い回しにすることは簡単なことですが、反対に難しいことを平易に表現するのは難しいものです。


(『死ぬほど読書』 幻冬舎新書)


最後に紹介する『正しい本の読み方』(著:橋爪大三郎 講談社現代新書)は学問との係わりにも踏み込んだ、まさに入門書。

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

  • 作者:橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/09/20
  • メディア: 新書
やさしい語り口で俗な話題をしているようで、本質を突いてくる。同時代の著者と著者の関係など、思い当たる節が多くて思わずニヤリとしてしまう。以下引用:

 ある本が、別な本を批判していたら、ああ、その本を評価しているのだな、と「ポジティブ」に受け取ってください。

 本や論文が書かれていても、それがまったく存在しないかのように扱う。批判しない。言及しない、参照しない、引用しない。これがアカデミア(学術界)での、最もネガティヴな態度表明です。


(『正しい本の読み方』 講談社現代新書)

上記引用のような態度に限らず、そういった関係を捉えた上で、本書は「論理」の存在を基調とした構造と意図を読み取る読書を勧めている。当然、著者の背景なり歴史を掴むには本一冊では済まない。例えば昨今注目を集めているマルクスの『資本論』については、『資本論』だけ読めばいいとは書いていない。他の著者との関係、特にイギリスの経済学者デヴィッド・リカードのことを考えるように示唆する。それが『資本論』を読むことであり、読書であるというわけだ。


また数学の方程式を例にして、読書をする上で「論理」をたどること、主張に隠れている前提をチェックすることの重要性を説いている。これが問題を「言葉」で解決する知恵となる、と。そしてこの箇所こそ、よく話題になる「学校で習う数学は世の中で必要な知識なのか」といった話の簡明な答えだったりする。以下引用:

場合分けは、面倒だと思います?
高校の数学で、いったい何を練習していたんでしょう。
議論が成立するための、前提を確認する練習をしていたのです。


(『正しい本の読み方』 講談社現代新書)

巷の議論が、まさに”前提”のところで右往左往しているように思えてこないだろうか。


読書法は多くの自己流があるかと思う。あって構わない。人がどんな本を読んでいるかも気になるだろう。紹介した本はいずれも、読んだら読書がしたくなる。さらにいろんな本と出会いたくなる、という点が共通点だ。そして読書に不変の魅力があることを伝えていると思う。よくある「面白かった本ベスト〇〇」といった記事を読んで本選びすることを否定はしない。だが私は「これさえ読んでおけば大丈夫」という安心感や義務感以上に、これらの本を読んで読書への衝動が湧き立ったことが嬉しい。

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