デジタルエンタテイメント断片情報誌

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青春から”今”に通じるものは 亀井勝一郎『青春論』

青春について書かれた本を、「青春時代」とされる年齢の頃には、多分手に取らなかった。”中学生でもわかる~”みたいなタイトルの本を中学時分に敬遠していたのと似たような、ごく感情的なものだと思う。

ところが自分自身だけでなく、他人の生き方や考え方まで気になってくる齢になると、後戻りできないとわかっているのに妙に顧みたくなる。どれ、青春とはいかばかりのものか、というわけである。

そんな折に読んだ本で、感銘を受けた本がある。いやそれどころか、もっと早く手に取っておきたかったとすら思っている。『青春論』(著:亀井勝一郎 角川ソフィア文庫)である。

青春時代の衝動や感動を平易な表現で解説しつつ、若者のために日本の将来について語った随筆である。1950年~1957年に書かれた内容をまとめたもので、この文庫化が1962年(昭和37年)である。

この本に書かれた当時の日本が抱える問題、話題が今でも通用するのである。扱っている話題は恋愛にレジャーに芸術、国際関係から政治に憲法改正、働き方まで、「青春」を取り巻くものが一通り揃っている。これが当時の世相を汲んで書かれているどころか、現代の潮流までピタリと当てる勢いなのだ。当時と今がさほど変わらない、そんな衝撃も少なくないだろう。そしてそこに世の中を俯瞰する、バランスの取れたものの見方・感覚という、ごく基本的な所作に立ち返ることの重要性が示されている。青春論にとどまらない、その普遍的な内容に驚くかと思う。戦後間もない頃に書かれたとか、作者の経歴や思想・理想云々といったところで本書が着目、評されるだけではあまりに惜しい。今回はその辺りを踏まえた紹介をしたい。


とは言え書き出すと全て話題に出したくなるので紹介は最低限にとどめたいが、まず種々の「娯楽と消費」の感覚や流行、他者とのコミュニケーションや表現にまつわる話題から。今に続いている内容かと思う。以下引用:

快楽は刺激を求めます。最初に面白かったものは、次にはもう不満となる。この最もいい例はレビュー(※舞台芸能)であります。最初は厚着して踊る踊子に満足していた観客も、やがて彼自身の手で、その衣を一枚一枚はいで行く。そして裸体まで辿りついて、それでも満足しないというところまでまいりました。これは美的追求の進展なのでしょうか。それとも性的刺激の追求なのでしょうか。

節度の喪失は、現代人の一大特徴であります。

舞踏でも生花でも何んでも、早わかりの時代です。早くて、面白く、これが現代人のモットーであり、小説も映画も、それに答えようとしています。むろん頭が悪かったり、下手なためにのろのろしているのは困りますが、もし急速度化ということが、精神の上すべりを意味するとしたならばどうでしょう。

流行病はいつの時代にもあったが、極端な「ブーム」形式となったのは最近である。ブーム・ブームである。青年はこれに抵抗してほしい。およそ「ブーム」と名のつくもの「ベストセラー」と名のつくものは、敬遠した方がいい。一、二年たって、一般にもてはやされなくなったころ、しずかにその実質を検討してみることだ。

巷の話題の本質が、全てこれらに収束しているような気がしてならない。

そして表現する手段は増えたが、そのせいで昨今は”判断”の危うさが一段と露呈するようになっていないか。

私たち日本人は、興奮してくると、極限の言葉をろうしやすいという事である。当然かもしれないが、そこに見さかいなど全然なく、自分の気にくわぬ相手なら「赤」とか「バカ」とかそんな言葉をいきなり投げつける。大衆的になればなるほど、だれでもそうなりやすいだろうが、私たちはもう少し自分を訓練しなくてはならない。議論の是非はともあれ、静かに聞くべきは聞いて判断するだけの余裕がほしい。

 


また普段各種SNSを使っていて、政治の話題をあえて避けている向きもあるだろう。だがそういう人こそ頷きそうな、政治に対する考えを端的に表現している。これも現代の文脈で現れても何の違和感もない。以下引用:

 政治屋と称して、平生はこれといった職業もなく、たとえ職業があっても熱心でなく、ただ金と名声があるために、ひとつ代議士にでもなってやろうかという人が一番困るのである。

 政治のための政治が一番困るのである。政治は国民に奉仕するための技術である。支配するための術策ではない。この根本はハッキリさせておきたいものである。

 

日本(人)と外国に対する意識も冷静だ。これを「そんなことはわかっている」で果たして済ませられるのか、というのが我々の現況のように思う。著者自身の反省にどこまで追随できているのか、と考えることがある。平衡感覚、言うは易いが。以下引用:

 日本の美術や文学や科学が外国人にみとめられ、世界的に賞賛される事はむろん結構だ。わたしもそれを喜ぶが、しかし外国人がみとめなければ価値ないもののように考えて、卑下するとしたらどうであろうか。

 同時に私は別の危険をも感ずる。それはこうした劣等感や卑下にみずから反発すると、今度は逆にとんでもない優越感を抱いて、独善的になることである。

 とくに私はみずから省みて恥ずかしく思うのは「ヨーロッパ」に対して劣等感を抱く反面に、中国人やインド人や朝鮮人に対して、理由のない優越感を抱いてきたことである。

 


ここで評論家でもある著者の感動と批評についての考えを紹介しておきたい。個人的に文章を書いて伝えたいと思ったり、ネットを見て知りたいと思っているのはこのことだが、なかなか上手くいかない。皆さんはどうでしょうか。以下引用:

みんながほめていても、つまらないと思うこともあるし、また自分が感動しても、それを適当にいいあらわすことが出来ない場合もある。

 だからほんとうの理解とは、口に出してうまく言えるかどうかということだけではない。説明が上手だからといって、理解しているとはかぎらない。心の底ふかくおさめておいて、つまりは沈黙のうちに、うなずく場合だってある。

 そしてこの沈黙の肯定が一番深いのではないか。すぐれた作品はこれによって支持されてきているのである。批評家とは何よりもまず、この沈黙の代弁者でなければならない。そしてそれに適当な表現を与える事で、読者の心を代弁するものでなければならない。

繰り返すが、本書には世代を問わず、また永く繰り返し読まれてよい、普遍的な「青春」の極意が盛り込まれている。それは決して大仰なことではなく、まずは身近なことがらに当てはめてもよい。

流行りに飛びつく前に、話題の記事にヒートアップする前に、出どころが不明な情報を鵜呑みにする前に、SNSのプロフィールに唐突な思想・信条を並べる前に⋯⋯一呼吸でも入ればいい。行動を見つめ直したり、改めるのにもう間に合わないと躊躇することはないと思う。著者も以下のように本書冒頭で述べている。できれば、いやもちろん、私もそうありたい。

 人間は一生の間に、幾たびも生れ変らねばならぬものである。

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