デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

ネットの過ごし方と『論破力』

本のタイトルから受ける印象よりもずっと穏やかな内容だ。そして冷静、冷酷と言うより、むしろこの時代ならではの人間味を感じる。本書のテクニックを日常、特にネット上で活かすためには普段の思考、立ち振る舞いを見つめ直すことが重要だ。『論破力』(著:ひろゆき 朝日新書)はそんな観点から紹介したくなる内容だった。


各種SNSでは常に”議論”が盛んだ。自身の興味関心を越えて、とにかく手当たり次第議論するための話題に飢えている向きすら見かける。そんな中でレスやリプライの応酬が起きたり、果ては”炎上”したりする(そう言えば「祭り」という用語が廃れてきたなぁ)。

本来はそういった昨今の状況を受けて、あるいはその”渦中”で飛びつきたくなる本ではないだろうか。だが本書を読んでいくと、重要なのは議論に入ってからの技術ではなくて、むしろ議論の前提や想定、後処理なのだということに気がつくと思う。著者や本の売り込みたい方向性とは違うかもしれない。私自身、著者を”信奉”するものでもない。


序盤に示される「もっともらしい意見よりも事実のほうがだんぜん強い」、「事実ベースで話すことを意識する」、これらを基本としたシチュエーション別応用・対応法を中心に本書は進んでいく。

情報判断がつかなかった場合の対処も、ごくシンプルだ。

おいらはどちらか判断がつかなかった場合、自分で試したり調べたりするか、わからないまま「保留」にするかですね。
(『論破力』 朝日新書 P.215)

これさえやっていれば避けられた”炎上”や徒な”レスバトル”、そして”謝罪”も数々あるのではないだろうか。惜しむらくは近年の著者自身がこの点で上手くいってないように見受けられるところか。


そして言葉の定義や意味を確認したり、例外を持ち出すといった各種テクニックも、「事実」を繰り返し確かめているに過ぎない。これらテクニック紹介の合間に入るさり気ない文章からも、とりわけネットの世界で生きる術を改めて認識させてくれる。

ただ基本、おいらは誰に対しても敬語で話すようにしているのですよ。いつ相手が偉くなるかわからないし、どんなところで障害になるかわからないので、年下や女性にもタメ口をきいたりしません。
(同 p.137)

そもそもネットの世界では、その人物の素性まではなかなかわからない。そして通常名乗らない限り、性別もわからないはずだ。自称”男性(女性)”が実は⋯ということもある。確かめきれない事実に対して、些細なことだが当然の如く用心するというわけだ。

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こんなことを書いて、私自身、議論を否定しているわけではない。ツイッターやFacebookといったSNSで、話題にしゃしゃり出てジャッジや中立を示すような発信をしたり、あるいは関連するトピックを挙げて炎上に苦言を呈することもない。

むしろ盛り上がっている話題を見て、情報の出典や真偽を調べ判断することに時間を割くことが多くなった。映画やドラマ、アニメひとつを観るにしたって、パブリシティからゴシップまで吹きに吹き込まれる昨今だ。自分から発信できるツールを使う人間として、多少の責任感はある。幾多の情報が溢れている中、話題に対して議論をする余裕がないと言っていいかもしれない。


そして何より、自分の提供した話題が、議論よりもこういう”流れ”をつくれるようになりたい。

「こういうのあんだけど、面白そうじゃね?」「うん、そうかもね」という感じで、肩の力を抜いてふわっといったほうがうまく会話が流れるので、肩ひじ張って議論にいっている時点で、人を説得するうえでは二流だと思うのですよ。
(同 P.127-128)


なぜなら、この方が自分が得する気がしません? テヘヘ。


※『論破力』に関してはネット上の記事でも興味深い連載があったので今更ながらリンクしておこう。この記事でも、”「論破力」にこだわる必要はない”というトピックが目を引く。

以下記事から引用:

物事を思い通りにするためにはいろんなやり方があって、結果がついてくればそれでいい。ゲームのように、「必ず槍で戦わなければならない」などという縛りをつける必要はないと思います。

ネット上のコミュニケーションを考えると仕方ないのかもしれないが、知らず知らずのうちに”論破”縛りをしてはいないだろうか。

自分に合う、ネットでの”自然体”を探すのも一興だ。最後に繰り返すが、著者自身が最近この流儀から外れて、ネットに飲まれている感があることは書き留めておきたい。

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