先日書いた『宇宙よりも遠い場所』(公式サイト)の感想の続きを書きたい。今回は後半、第8話~第13話までの感想と全体について。
前半の感想はこちら。感想は前半、後半と観終わってのタイミングで書いているので、前半には後半のネタバレはないかと思う。
『宇宙よりも遠い場所』の感想・後半
ペンギン饅頭号や南極での活動とリアリティのさじ加減
第7話までの話と同様に、南極へ出発してから俄然楽しい。ただ行程の厳しさをリアルに描くわけでもなく、徒に甘い表現をしているわけでもない。さじ加減がちょうどよい。第8話みたいな話なんて、話数が多ければもう少し観たくなるところだ。マニアックな題材でありがちな、色々詰め込みすぎて(詰め込みたくて)説明描写が多くなり、お話やセリフのテンポを悪くするといったことがない。無駄なお色気要素もなくて良い。
この手のインターバル的な話ができるからこそのテレビ作品だと思う。これがもし劇場作品だったらカットされたり、一枚絵だけの窮屈な挿入で足早に済ませた感が強くなっていたかもしれない。作中でも現実でも、南極へ行く方法を調べるに簡単な時代だ。だが実際に行くとなるとまだまだ特殊な領域なので、過剰な表現がなくとも旅の凄みがちゃんと伝わるわけだ。前半の感想でも書いたが、こういう表現をするために南極へ行く切符を得るまでを足早に描いたのならば感服する。
挿入歌、演出の印象
まず、各話ラスト付近で度々あった歌の挿入はそれほど作品を盛り上げた印象はなかった。歌自体が作中でキーになっているわけでもないので、歌ではなくて音楽の導入でも印象は変わらなかったと思う。キャラの性格づけと同様、やはりこういう演出の伏線は作中に散りばめておいて欲しいなと思う。それこそ歌なら、登場人物にアイドルがいるではないか。
次に本作の演出については、これといって見出すものはなかったと思う。視点や動作に始まり、セリフの対比といったものに着目するのは結構だが、むしろそういう演出探しありきで、手段と目的が逆になることを危惧している。後述していくが、本作では演出が寄与しているはずの本筋に冴えない部分を感じているからだ。目を凝らしすぎて、木を見て森を見ずでは困る。いや、朽木やハリボテを見ているのに木だ森だ、と騒いではいないか。自戒も込めたい。
登場人物とそのエピソードから・後編
メイン4人の行程については順々に描いていたと思うが、観測隊の面々は、やや描写が端折り気味だっただろうか。
例えば第9話で登場する恋愛要素は、目くじら立てるものではないが、あってもなくてもいいかな、という印象。本作の惜しい所なのだが、メイン4人の話を優先するがゆえに、せっかく揃えた観測隊の面々がどうもセリフと絵面の表層的な面白さに終始してしまった感がある。特に男性陣。リアリティを追求する上では必要だろうが、舞台装置としても存在意義を感じなかった。
こういう女の子・女性を前面に押し出す作品の宿命だとは思う。もちろん私自身もそういう興味から視聴したことを否定しない。
ただキャラづけとしては、メイン4人にもそういう上っ面の味付けをした箇所があるのが残念。例えば小淵沢報瀬の麻雀など。せっかく観測隊の面々と顔を突き合わせるのだから、母親絡みでも、もう少し使いようがある気がした。
小淵沢報瀬の話が出たので関連してもう少し書くと、第9話ラストのあのセリフは予想よりもあっけらかんとしていて好印象。これなら後々この時点で既にあのセリフの意義は忘れてた、で十分意味あるものになった。第1話頃に描かれた小淵沢報瀬本人の心情や周囲の反応は、行程の描き方が良いので、8話くらいまで視聴すれば視聴者も薄れていると思う。
それだけに序盤の印象は良くなかった。キャラクターと実感を共有できるはずなのに、小淵沢報瀬の「しつこい」という設定に引っ張られた感もある。
また観測隊はこれまでの経緯と被って、などと色々考えたり想像が膨らむところではあるもの、大きな志のある”大人”として、同調して鬨の声を上げなくともよかっただろう。良い締めにしようとしすぎたかなという印象⋯これは、ちょっと個人的好みが過ぎるかもしれない。
第10話では、第5話までに見せた玉木マリとの友達エピソードのまずさが尾を引いている。序盤で感じた不満がそのまま跳ね返ってしまった。
前半の感想で書いたとおり、高橋めぐみのキャラ造形を決め打ちしすぎた感がある。メイン4人とは違う、キャラ分けしすぎたと言うべきか。友達には「そういうところ〇〇ちゃんと似てる」「〇〇ちゃんもそう言ってた」のように、メイン4人と被り重なる箇所があってもよかったのではないか。高橋めぐみがかけがえのない友達であること、その良さを平凡でいいから含みあるようにしておいたほうが第10話の威力が増したと思う。
それは何かというと、主人公が南極に行くことに控え目でも好意的で、失敗という前提を繰り言せず、「やってみれば」とさりげなく後押ししてくれる、というもの。その方が自然な作風だった気がする。話の構成がいいだけに、個人的には第10話を及第点にしてしまった原因。
後半どうなるか楽しみにしていた三宅日向のエピソード。最初に書くと、未解決エピソードではないか。
三宅日向の心情を理解しつつ、受けた行為や学校をやめた経緯が解せない小淵沢報瀬の心情は理解できる。最後に小淵沢報瀬がカメラの前で宣言し、主人公勢が加勢するのは、確かに溜飲が下がる。視聴者が感じていたであろう「いや、そうじゃないのでは」というモヤモヤを最後に吹き飛ばして、スカッとする。三宅日向が発したくても発せなかった言葉を”友情”の力で汲み取り、矢面に立ってくれる仲間ができたんだというカタルシスは感じる。普段はムードメーカーの三宅日向を今度は周りが助ける。そこには三宅日向だって年相応なんだ、という見方もできる。
だがその一方で、最後は迷い迷った三宅日向自身の言葉が聞きたかったとも思う。カメラに乱入してでもよい。そこで許すかどうかも、どちらでもいい。この後、三宅日向のエピソードが作中で語られなかっただけに、一層その念が強い。
小淵沢報瀬があのように宣言したものの、例えばこれから生きていく中であの元同級生達に会わないとは限らない。ばったり出くわして「あのときは仲間に言わせて」と後ろ指を指されることだって想像できる。
そのときに三宅日向がどう太刀打ちするのか、私は作中の展開だと解決ではなかったように思う。それこそ三宅日向以外のメイン3人にとっては、あの場はあれでよかったかもしれないが。「友達の友達」の問題を友情に任せ過ぎたのではないか。現実でも同じような救いのない状況がありえるからこそ、作中で敢えてこういう”解決”にしたのかもしれない。
それでも三宅日向の自助を求めてしまうのは、ファンタジーで、綺麗事過ぎるだろうか。いやたとえ綺麗事でも、小淵沢報瀬と張り合うような、三宅日向のたくましさの真骨頂を見たかった。あと視聴者にできることは想像しかないから。
小淵沢報瀬と母親と南極と
最終盤の見どころと位置づけられるポイントだと思うので、書いておきたい。
まずは第12話のクライマックス、報瀬の母親の遺品を探して、PCを見つける一連のシーンがある。
メールの伏線自体はPCが出てきた時点で察したので、正直「まあそうだろうな」という感想である。悪いとか、ダメではなくて、冷静に先が読めてしまった。さすがにあれだけ各話で伏線を張っていれば、「なぜ母親にいつもメール送ってるんだろう、届くんだろうか、届け先があるのか」と考えていくものだ。
感動を狙ったシーンだと思うので多少クドく書いておくが、普通に視聴すればこのくらいは読める。そして残念だがわかっていても感動する、とまではいかなかった。それくらいメールを作って、送っている場面はわかりすやく挿入されていたと思う。これを見逃してしまうようでは何を観ていたのか、となる。TVのシリーズものという性質の違いはあるが、ハリウッド映画にあるような、観ていくうちに忘れたり、後からハッとなる仕掛けとはいかなかった。
その仕掛けが読めただけに、メイン3人が泣くシーンも、そこまで感情が揺り動く画ではなかった。作中の人物が感極まったからといって、視聴者が感動するとは限らない。
ちなみに第13話でPCを返却する流れは悪くないものの、そもそもなぜ観測隊の面々が手をつけなかったのか、という疑問を蒸し返す上、PCの送受信仕掛けは正直2段にしなくてよかった。さすがに作為的で、手法としては小手先。送信を見た瞬間に感動よりも、「ははあ」と察してしまう。
むしろ何かを見つけるのであれば、PCよりも、メールと同様に序盤からさんざ印象づけた母親の著作にもう少し意味を持たせても良かった気がする。母親の南極の日々や、足跡がわかるグッズや出来事を辿って”答え”に辿り着くほうが、話の流れに合わせて明かしていくことができたと思う。「本当に南極は本に書いてあった通りか?」というわけだ。藤堂始めとした母親の知り合いとも絡ませ易い。例えば前述した報瀬の特技:麻雀にしても、安易なキャラづけとお笑い場面で終わらせずに観測隊との接点で使い出がありそうだ。
母親が死んだときのことを何回も回想していたが、話数をかけた割に、「死」以外に母親の存在感が乏しかった。小淵沢報瀬が感じている以上に、母親の実感が、実体が湧かないのだ。
ただ第12話でようやく、この作品のテーマであり、もうひとりの主人公である小淵沢報瀬の目的、南極へ行く目的を自分なりに認識することはできた。
検索して確認したわけではないが、多分人によっては序盤で気がついたり、また同じようなことが書かれていると思う。今更私が大発見というものではないと思う。放映終了1年以上経っている作品で騒ぐのも正直気恥ずかしい。それに私はリアルタイムで見ていても、第12話のタイミングで気がついていただろう。
「お遍路」なのだ。
これを作品として現代的で魅力的な、視聴者が興味が湧く未知の多い題材、すなわち南極に置き換えたわけだ。今は四国方面のレジャーという印象も強いが、昔はお遍路も死を覚悟するような旅だった。そしてお遍路の目的は、供養であり、自己の修練である。
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「お遍路」にまつわる言葉で「同行二人」(どうぎょうににん)がある。巡礼者が常に弘法大師とともに、あるいは先祖、亡くなった家族と巡礼しているという意味である。
「何のために南極に来たのか」「その先は」という葛藤もあったようだが、実は小淵沢報瀬の行程は既に母親と十分向き合っていたのだ。母親との距離も言わずもがな、である。そして他の3人にもちゃんと目的があったのだ。これがわかると、本作のタイトルは、作中でさんざ口にされなくとも実感が湧く。むしろ野暮ったい繰言だとわかると思う。既に演出のことを書いたが、語らないことによる演出だってある。その辺り、本作は制作側がわかりやすくしたのか、技量なのか。本作であれば私はセリフにしなくても大丈夫だった気がする。多少皮肉を書けば、その方が視聴者の演出論や考察とやらの腕の見せ所になったのではないだろうか。
後半の総括:全体を通じて
前半の南極に行くまでの見せ方は手際良かったが、南極に到着してからの様子は若干ダイジェストのような印象を受けた。観測隊の面々、そして南極という舞台はもう少しお話に活かせたのではないか。特に大人や、男性といった存在が許される作品のはずなのに、もったいない。繰り返すが、登場人物は女の子ばかりでないと観てくれない、そうした商売の都合は否定しない。私もその一人である。だが蓋を開けるとその辺りの「制約」が惜しかった。
また話の構成や進め方は悪くなかっただけに、丸々一話、登場人物全員巻き込むようなエピソードが見たかった。多少本筋から外れても、ドタバタしても、これぞ南極、この作品はこの回、というインパクトを残す話が欲しかった。作品世界が広がったと思う。
メイン4人のエピソードは前半の続きで、後半どう料理するのか楽しみにしていたが、一部作中での結論を急いだり、勢いに任せた箇所も見受けられた。全員過不足無く、とはいかなかった。最後に成長や新たな一歩を踏み出す姿を描きたい意図は透けて見えたので、清涼感の割にヒキが弱くなってしまった。最終話、玉木マリの友達の行動についても、締めとしては小手先という印象だった。本編の内容からは、クスリ、という笑いを誘う以上のものはないと思う。これを玉木マリが動かした云々いうのであれば、穿ち過ぎではないか。
観て損したとはならないが、何回も観たくなるかというと、正直一度観れば⋯という内容だったと思う。南極やキャラクター、キャスト・スタッフといった個人的な興味・趣味を思い出して、見返すことはあるかもしれない。