休みが明けた次の日、仕事に行こうと駅に向かう。休み明けの気だるさと、それでも時間通り電車に乗らなければならないせせこましさ。そこに暑さで吹き出た汗を拭いながら、いつも通り抜ける商店街を急いでいると、音楽がかすかに聞こえてきた。おそらく有名であろう、クラシック音楽だ。敢えて曲名は書かない。
それを聴いて、ついに朝も流すのか、と足を動かしながら嘆息していた。
昼下がりに音楽を流し始めたのは知っていた。最初聞こえたときは、自分のスマホから音でも漏れているのかと思った。ところが、よく聞くと季節に応じた童謡やポップスが流れている。それで気がついた。
ここで問題にしたいのは、音楽の種類といったことではない。
なぜ一日中、生活空間で音楽が聞こえるように仕向けるのか。街角でも、通路でも、店の中でも、公共施設でも。もちろん、誘導といった公的な目的がある音楽を認めないわけではない。
趣味の一つとして音楽を意識し始めて以来、音楽の喧騒ではなく、存在を訝しむようになるとは思わなかった。
これだけ音楽に囲まれ続けていると、大げさと言われるかも知れないが、音楽に対する欲求と感動が知らず知らずのうちに薄まっているように思える。ましてテレビや映画も音楽の洪水である。朝の音楽だって、そのうち気にならなくなるのだろう。
そんなことを、気にならなくなる前に、別の記事で読み直した作曲家・武満徹のエッセイ(ちくま学芸文庫)で思い出した。もう手遅れなのか。
音楽を生業とする作曲家は、この状況を40年以上前に、”過剰”の一言で切り捨てている。以下引用:
都市生活ではそれでなくても乗り物の騒音やその他の雑音が生活の周囲に充満しているのに。あるいは音楽でそれらの騒音をマスクしようとでもいうのだろうか。毒には毒をというのであれば、それこそ毒にも薬にもならぬような腰砕けのムード音楽では役立たない。
音楽の過剰に慣らされて恐ろしいのは、それによって耳の想像力が気付かぬ間に衰えることだ。
ひとつ個人的な所感がある。自宅でこうした記事を書いているときに、ふと”乗り物の騒音やその他の雑音”が耳に入ることがある。実はそれらに、なんとも自然で、風情すら感じる瞬間がある。
それも衰えてる、せいなのかしら。