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映画音楽雑感 武満徹 映画エッセイ集『映像から音を削る』

話題の映画を観に行ったら、疲れてしまった。作品がつまらなかったのではない。疲れてしまうのだ。作品の余韻以上に、何となく頭がガンガンする、体がじっとりとして重い。これはアクション映画に限らないし、今人気の体感重視の上映でなくとも、だ。そんな微妙な異常とともに映画館を後にする。

そして自分が映画を観る時の楽しみ、音楽のことを振り返ると、どうも印象にない。絶え間なく流れていたはずなのに、あの場面も、この場面も⋯音楽が流れない映画というのも最近は観ていない。

これはやはり映画音楽に対する考え方や創り方の違いではないか。そんなことを考えながら『映像から音を削る』(著:武満徹 清流出版)を読み返したりしている。

武満徹の書いた、映画音楽にまつわるエッセイを最近になって再編した本である。これまで出版された著作集、特に『エッセイ選』(ちくま学芸文庫)を読んだことがあれば馴染みの文章も掲載されている。


『映像から音を削る』の中で本書のタイトルにもなっている、『音を削る大切さ』というエッセイがあり、得心を得るために度々その頁を開いている。以下引用:

「⋯見る側の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容(コンテンツ)を秘めた豊かな映像(イメージ)に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。観客のひとりひとりに、元々その映画に聴こえている純粋な響きを伝えるために、幾分それを扶(たす)けるものとして音楽を挿れる。むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている」

昨今の映画はそんな内容や効果を狙った作品ばかりではないだろう。体を揺さぶり、音響で興奮させるつくりの作品だって少なくない。それを楽しむくらいの寛容さは持っているつもりだ。だが上記のような、映像と一体となり、その存在感を一層増した映画音楽を作品とともに味わってみたい、というのは時代にそぐわないのだろうか。


他に、家では家人とついテレヴィ(※テレビ)を見てしまう、という俗人のような生活ぶりを書いたエッセイも収録されている。作曲家が等身大、身近な存在になったようで妙に安堵する。それでもその感覚はやはり音楽に携わる人間のそれである。

テレヴィとはなんと落ち着きのないものだろう。絶えず音を発している。

ニュースといった情報番組の背景にまで音を流してしまうのは、見る側の反応を一様にしてしまいはしないか、音楽による効果でそこにある真意を誘導しているのではないか、と警鐘を鳴らしているのだ。


そんな日常にも音楽が侵食しているのであれば、娯楽である映画は言わずもがな、なのかなあと、やはりすっきりしない。

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