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邦画と特撮、アニメに寄せて 映画『シン・ウルトラマン』の感想

ネタバレありです。5/13公開の映画『シン・ウルトラマン』を観てきたので感想です(公式サイト)。詳細なあらすじを並べたりはしませんが、観た人には分かる内容だと思います。感想は目次と前書きでワンクッション置きます。

※画像をタッチ・クリックすると特報②(YouTube)が再生できます。

『シン・ウルトラマン』を観る前に

感想の前に、私がどの程度ウルトラマンが好きか、知っているか、というお話を。所謂テレビ放映された空想特撮シリーズ、『ウルトラマン』(1966)は一通り観ました。『怪獣図解入門』のような本も好きでした。ただ、映画の前に視聴し直したり、日頃から繰り返し観ているわけではないです。ぬるいファン、程度だと思います。

今回は日本を代表するヒーローを題材にした最新映画としてどうだったか、他の一般映画作品と同じスタンスで鑑賞したつもりなので、まずはその感想を書きます。その後は、あれこれ思いついたウルトラマンに纏わる与太話を。

『シン・ウルトラマン』の感想

冒頭の巨大不明生物出現と禍特対の設置までのダイジェスト。これが映像への興味やわかりやすさよりも、映画の始まりとして凄く残念だった。ウルトラマンを知らない層に向けた”軽さ”を狙っているのかもしれないが、物語の導入や伏線として経緯はベタでも劇中に織り込んで欲しかった。特にガボラなど序盤に登場しており、もっと唐突さを排して話を構成できなかったのか。

また今回、政府と関係者の立ち回りがいかにも風刺で床屋政談が過ぎている。タイトルで登場したので書くが、『シン・ゴジラ』が同様な路線でありつつも政治家・役人の”責任”の所在を描くことに腐心していたのに対し、本作は人類側の描写が矮小化してしまった。人間であり宇宙人、という本作のウルトラマンを描くために人類という存在が必要なはずなのに、である。喜劇・コント的な台詞回しの面白さだけ印象に残っていては、ラストで人類滅亡の危機を乗り越えてもカタルシスは得られない。インターネットに現代的な世間・世界の表現を任せる一方で、VR会議が滑稽だけどやっていることは凄い、といった取り残された世代を代弁するような場面にしか演出できなかったことにも本作の限界を感じた。数式の絵面も小手先である。未知の技術や存在に翻弄される人類、だけではなく未来の人類はこうだ、という”空想”や夢の視点を入れて欲しかった。それが後に作品の評価に繋がることもある。

そういう粗さ、雑さは禍特対の描写にも言える。チームや仲間としての妙味以前にリアリティを感じることができなかった。例えば状況に応じた指揮の点で現場に赴く必要性は認めるにしても、禍威獣が暴れる度に班長以下メンバー全員で出動する必要はない気がした。全滅したらどうするのか。対処中に別の場所で禍威獣が現れたら? 禍特対をお役所、ビジネス然として打ち出すのならそういう目で見てしまう。ちょっとしたフォローすらないのが釈然としないのだ。当然ドラマ的、映画的な、ここぞで全員集合という見せ場もない。ウルトラマン誕生のきっかけである、現場での行動も解せない。あの少数精鋭で、神永が一般市民を保護しに動く流れが不自然なのだ。せめて神永が動く前に自衛隊員が手を挙げる、といった描写は入れられなかったのか。説得力が違ったように思う。

ストーリー・展開にももう一捻り欲しかった。高度な知能と科学力を持つ宇宙人、星人が相手だ。アナログが見抜けない、というありがちな弱点を突いたと思ったらさらに出し抜かれる、そういう応酬が観たかった。ザラブなどあれだけ電子データを自由に操れるのならば、浅見と公安の人間が接した時点で察知するだろう。そこで妨害が入って、というドラマがひとつできる。最終的に神永の居場所に辿り着くにしても、本作のテーマである人間の限界や底力、可能性が結びつけられる。禍特対のコンビネーションがあればラストにも繋がる。単独行動が文字通り一人の行動でなくてもよい。ベーターシステム周りの話を考察・解釈の餌にして風除けにするのではなく、この辺りの丁寧な画が観たかった。

ウルトラマンの格闘シーンについては、活動リミットに纏わる演出が今一つだったように思う。エネルギーがなくなるとカラータイマーの代わりに体色が変わるだけでなく、もう少し動作でピンチが表現できたのではないか。肩で息をする、膝を折る⋯圧倒的な力を見せた後ならば、その落差で表現は容易なはずだ。そもそもそうやっておけば、体色が変わる必要があったのか疑問だ。時間的な制限をなくした割に、最後がわざわざストップウォッチまで示して間隙を縫う戦いだったのは、作品のコンセプトとしては本末転倒に映った。

また全体的な印象として、一部台詞回しや言葉のチョイスにセンスを感じなかった。現代的な言葉遣いを入れるのは構わないが、芝居がかった言い回しとの使い分けがちぐはぐしている。少し時代が変わっただけで作品が古びてしまいそうだ。余談だが今日日女性にコーヒーを淹れたり勧めてもハラスメントの危険性を孕んでいるが、あのシーンは風刺なのか皮肉なのかキャラクターの性格を示唆しているだけだったのか。カメラアングルも独特であること以前に正直男性向けを狙ったようなものが目立ち、作品の意図を測りかねる。

CGについてはクオリティが高く、このレベルならと好意的に鑑賞していた。最後のゼットンだけCG感アリアリで今一つだったか。狙ったのかもしれないが、宇宙という地球上の環境と比較対象できない場所であの表現は画が浮いてしまう。これはゼットンのサイズ設定も同様で、ウルトラマンよりもさらに巨大な相手=強敵を印象づけたかったのだろうが、前述の通り宇宙だとスケールがあやふやになってしまうのだ。バクテリアのような相手にウルトラマンが小さくなって戦っているようにも見える。あれが昨今エンターテイメントで題材にされる仮想空間での戦いだと言われてもおそらく違和感がない。そこが劇中の”日常”以上に、ラストが人類の存亡をかけた最後の戦いという盛り上がりに欠けた要因の一つだと思う。映画全体にこじんまりとした印象を与えたのではないか。もっともそういう含みを持たせて、最後にウルトラマンが帰ってきた場所は果たしてどこだ、という余韻を残すように仕向けたのだとしたら、あざとい。

最後に音楽については、なぜ全て新録しなかったのか不思議だ。ウルトラマンのオリジナル音源は『シン・ゴジラ』で使用されたゴジラシリーズの音源より状態が良さそうだったが、やはり映画館の音響設備だと画の新しさと調和がとれていない。シネマコンサートも盛んな昨今、オリジナルの楽曲を使いたかったら新録で「再現」に挑んでよいと思う。今回新録したと思われる音楽が良かったので尚更だ。


特撮で見たい夢

見出しは『ウルトラマン誕生』(著:実相寺昭雄 ちくま文庫)より。最後にウルトラシリーズ、特に初代ウルトラマンを踏まえて私が『シン』で観たかったもの、期待していたものについて放言しておきたい。既に巷に溢れている内容と大いに被るかもしれないが、独善的に。

ちなみに「特撮で見たい夢」は何か、ウルトラシリーズを担当したカメラマン・中堀正夫がとても素敵な言葉を残しているので引用する:

「⋯⋯むずかしいけど、どこかで本物をこえてなきゃ、特撮がほんとうにすごい、夢が見られたっていえないんじゃないかなあ」
(『ウルトラマン誕生』 ちくま文庫)


・現代においてウルトラマンがいかにバレずに変身するかを楽しみにしていたのだが、早い段階で正体がバレて人前で変身するようになったのが残念。いつも単独行動だからではなく、少しは疑ってもよかったのに。現場にいなくて怒られたりとか。その辺りが様式美の押しつけだとしたら頂けない。逆に変身シーンはもう少しじっくりと、フラッシュビームが体を覆うバージョンが見たかった。ゴメスのついでにジラース出してもよかったのに。


・ウルトラマンのスペシウム光線お披露目はポーズを溜めていてガッカリ。サッと構えてスッと発射が一番好き。あの一連の所作は溜めがないから美しい。以降は溜めてなかったので良しとする。最近のゴジラの熱線といい、なんか溜めるんだな。ゴジラもサッと吐いてくれる方が絶望感を煽る。


・ザラブ、メフィラス、とくればファンなら、あるいはファンでなくてもアイツが出てくると思った宇宙人が出なかった。宇宙忍者ね。デザインは2代目で。こいつなら宇宙語ネタも巻き取れるし、地球侵略の背景も他人事ではない。八つ裂き光輪といえば、でもある。実は各宇宙人が連携していた、みたいな話もつくりやすそうだ。そういう定跡はおそらく外したのだろう。そう言えば本作のウルトラマンは「シュワッチ」などと声を発しなかった。これもとっておきかと思ったら最後まで黙ったままだった。宇宙人としての肉付けなのか意図不明だが、声を発しないことが特段の映画に出来栄えに影響しているとも思えない。

ULTRA-ACT バルタン星人 (2代目)

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・前述のウルトラマンの正体が疑われる、宇宙人が結託してウルトラマンを倒しに次々と現れる、というのはネタ元がある。『小説ウルトラマン』(著:金城哲夫 ちくま文庫)である。この本に『ウルトラマン(1966)』放映後に発表されたノベライズが収録されているが、本編にない、あるいは一部削られたかもしれない前述の要素が補われているのだ。今回ウルトラマンのデザインで成田亨が注目されているが、氏に匹敵するウルトラマンの創造主の一人が著者である。宇宙人ラッシュで『シン・ウルトラマン』を締めたのは金城哲夫に敬意を込めてのことかもしれない。


・名前を出したので書くと、ウルトラマン以外に「ああこいつか」「これだよね」という成田亨オリジナルデザインままの怪獣や宇宙人があと1、2体観たかった。尊重するのはウルトラマンのデザインだけ、というのであれば異議を唱えたい。ネロンガはグロテスクな要素がやや蛇足。パゴス、ガボラの顔は萎えた。ザラブ(星人)のアレンジは今だからこそできるものだと感心した。やっぱりメフィラス(星人)か、ゼットンだな。どちらもデザインが好きなので甲乙つけがたい。ゼットンはあのシルエットでウルトラマンと同サイズ、要塞ではなく生物だからこそ無機的で恐ろしいほどの強さが際立つものだと再認した。1兆度~を真剣に取り扱い、小ネタ要素も含めたかったのだろうが、ウルトラマンを倒した怪獣として変わらぬシンボルであることで溜飲を下げたかった。


・感想を書きながらストーリーを思い出していると、『ウルトラマン』の設定で『ウルトラセブン』をやったのだなと今更感じた。例えばウルトラマンの正体がバレて最後は人類の力を借りてゼットンを倒す、なんて「セブン暗殺計画 前篇・後編」プラス「史上最大の侵略 前編・後編」ではないか。ヒロインポジションを配したのもそうか。居酒屋で酒飲むシーンもそのノリか。地球はもう狙うに値しない、という話は先越されてたな。体色が変わったり、正体がバレるのは最近のウルトラシリーズでもあった。こうなると映画のラストを観るに、知的生命体が地球に大勢攻め込んでくるらしい『シン・ウルトラセブン』は何をネタにするのだろうか。先に『シン・帰ってきたウルトラマン』か。初代ウルトラマンが帰ってきたという当初の企画を掘り起こすのか。何だかんだで観に行くんだろうな。

狙われた街

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・身も蓋もない話かもしれないが、あくまで『シン・ウルトラマン』劇中の話、解釈として書いておきたい。劇中で「ウルトラマン」と呼称を決めていたが、なぜ「マン」になったのだろうか。マン(man)に「人、人類」の意味があるのはわかるが、初登場時、まさか人だとは認識されていないだろう。ではヒト型、という意味で正しい使い方なのか、浅学故わからない。手元の辞書でもよくわからなかった。

もちろんこんなことは古今東西の「~マン」とつく作品で考えたことすらなかった。だが劇中では「ウルトラマン」という概念が存在しない様子の上、ウルトラマンが服を着ているか云々の台詞があったので気になってしまった。外見のみで男女の判別をするのは案外難しくないだろうか。大体、もし性別についての調査・検討があったとしたら、正体不明の存在に「マン」とつけないのではないだろうか。地球上のUMAだってビッグフットにヒバゴンだ。性に関する昨今センシティブな話題でもあるので、できれば劇中で答えが知りたかった。

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