デジタルエンタテイメント断片情報誌

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普段容姿を意識しない職業・人物の”顔出し”は気になるか

とても気になる。

記事タイトルを受けて、いきなりスパッとした所感から入ってしまった。具体的にはどう気になるのか。

顔なんて別に見たくないけど、実はちょっと見たい気持ちもある。でも見たら、見なきゃよかったって思うかもしれない

という具合だろうか。具体的と書いておきながら、何ともうねってしまった。だがこれが正直なところだ。

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各人の容姿を意識しない、または意識しなくてもよいはずの職業・人物(の活動)は色々ある。大雑把に挙げても⋯小説家や画家、作曲家といった作家。記者・ジャーナリストや編集者。声優や、最近ならばVTuberを”演じている”人物。本人画像を公開する必要のない性質のSNSやブログの利用者だって該当するだろう。

これらの人々が生み出すものは、作品や文章、演技そのものが評価されればよいのであって、容姿云々は本来関与しないはずだ。

ところがどういうわけか、現在まで顔と一緒に記憶している人物が結構いる。まずは作家が代表例だろうか。私が学生時代に使った国語の教科書や資料集では、多くの場合、顔写真付きで作家の紹介が載っていた。落書きコーナーを見つけた、という当時の不真面目な情動もさることながら、作品を鑑賞した後に見る作家の顔に対する、得も言われぬ気持ち。

そういえば、そんな心情を三島由紀夫(この人の顔も憶えたなあ)が既に過不足なくネタにしていたので、定番だろうが紹介しておく。以下引用:

いや、一度も会ったことのない人物だって、写真でおなじみというのが普通である。そうすれば、或る小説の著者が、チョビ髭を生やしているということは、いやでもわかってしまう。そして彼の小説を読んで、たとえば何でもない一行、


「彼は女のやわらかい、甘い、薔薇のような乳房に、酩酊を感じて⋯」


 などという一行を読んでも、その一行が文学的に良い悪いということを別にしても、「あのチョビ髭でこんなことを書くか」と思っただけで、もう胸クソが悪くなる、ということはありうるのです。
(『不道徳教育講座』P.190-191 角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

作家に限らないが、容姿を見てしまった瞬間に湧き出す、好感、嫌悪、驚き、失望、あざけり⋯。残念ながら、「想像した通り」というケースは個人的に少ない。容姿を公開すること自体は別段自由で構わないし、冒頭で書いた通り、好奇心で自分から見にいったこともある。最近多いのは、ネット上のアイコンやアイキャッチ画像といった些細な所から「見てしまった」ことだろうか。

実はその度に「声は可愛いし、ルックスもまあ可愛いか」という”妥協点”探しから、「こんな見た目の人だからこそ、あんな素晴らしい作品が生まれたのだ」といった失礼千万な称賛を入れてみたり、はたまた「その顔でよく顔出しするね」「売名行為ですか?」という自分を棚に上げた嫌味・悪口を思い浮かべている。もちろん、良心の呵責に苛まれることもある。そんな春秋を重ねている。


いやしかし、このまま記事が終わってしまっては、「やっぱり顔出しは自重してね」という色が強くないか。そうだ、最後に現代の作曲家・吉松隆の『世紀末音楽ノオト』からフォローしておこう。以下引用:

大体、性格がそのまま作品や文章になっているようでは知的創造としてはまだ甘い。むしろ、自分とは非なるものを創ろうと試みるのが創造者ではなかろうか?
(『世紀末音楽ノオト』 P.66 音楽之友社)

世紀末音楽ノオト

世紀末音楽ノオト

  • 作者:吉松 隆
  • 発売日: 1998/12/10
  • メディア: 単行本


創造的活動として捉えると、容姿もまた、味わい深いの⋯だろうか。

とはいえ、吉松隆もこの後、「やたら姿を見せない方がいいらしいのだ」と続けているなあ。
「やたら」という部分で勘弁してもらおうか。

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