デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

感想・レビューを読んで白けるポイント

自分の趣味や嗜好には感想やレビューの類がつきまとう。音楽・映画鑑賞、TV番組、読書や食べ物⋯。自ら発信することもあるし、やはり他人がどう思い、表現しているかは気になる。世間との意見の一致・不一致だけではなく、対象について納得し、理解を深める機会を求めたい。できればそこに自分にはなかった発想や個人のオリジナリティを見つけられると、言うことはない。

他人のものを探るには、まずSNSが今なら手っ取り早い。例えばツイッターが日本では代表格だろう。簡潔で率直な呟きが溢れている。だが、「面白い」「つまらない」といった端的な表現だけでは物足りないことが多いし、呟きに付随する「その後食べに行ったケーキがうまかった」、みたいな情報までは正直いらない。目下注目しているのは個人の生活ではなく、作品についてだから。

そこでネットで検索する。企業が運営するレビューサイト・コーナーから、一般・専門家諸々のブログや個人サイト、5chとそのまとめサイト⋯。RSSリーダーで収集された記事は既に読んでいることもある。

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少し前置きが長くなったが、今回はそんな感想・レビューを探し読んでいて、「あんまり参考にならないかも」「その体裁はちょっと⋯」「まあ話半分で読んどこう」と、心が突き動かされず、何となく冷ややかな目を向けてしまうケースを書き連ねておきたい。

1.感想・レビュー作成のきっかけが、普段から縁のある「特定の人物」からの紹介・影響

ツイッターのやり取りで見かけるし、ブログ界隈でも手法化していると思う。本題に入る前に一言、一文、文章が入る。

・「ツイッターで知り合った~様からの紹介・リクエストで~」
・「オフ会で~さんと-さんに薦められて~」
・「いつも紹介させて頂いているレビュアーの~様が絶賛されていたので」


こんな感じだろうか。こういうきっかけで始まる記事は、書いた人物が抱いた印象や評価という点で割り引いて読んでいる。

なぜなら、紹介・推薦をしてくれた人物への配慮と遠慮がどうしても出てしまうからだ。内容としては肯定的・プラスに捉えられた文章になりがちだし、目の前の感想よりも、特定の「~様」や「~さん」の存在や感想を書き手も読み手も念頭に置いてしまうわけだ。

3つ目の「絶賛されていたので」は、大して面識のないサイト・人物の記事をリンクしている場合は、さほど問題はない。だが知り合いレベルになると、感想が集約されたも同然である。

”辛口”や”毒舌”を自称する人物(自称する時点でどうかと思うが、今は少なくなった)でさえ、こういう感想・レビューでは奥歯に物が挟まったような、日和った文章になったりする。逆に忌憚なく味噌糞に書いている場合は、よほど良好な交友関係なのだろう。ただいずれにせよ、”内輪の記事”という印象がつきまとってしまうので、紹介・推薦と表明した時点で普段のスタンスからは失敗、ではなかろうか。

ネット上での人間関係構築は否定しないが、記事は一応全世界に向けて発信されているので、こういう感想・レビューに辿り着くと流し読みになってしまう。

2.作家・関係者と接点がちらつく、または趣味が高じて関係者然とした活動をしている

例えば熱心な愛好家・ファンが活動する。結果として注目が集まり、交友関係が広がり、関係者とパイプが出来たりする。思わぬ仕事・依頼をもらったりすることもある。所謂「作家お墨付き」の看板を掲げることができるのは、感想・レビューを書く人間にとって、憧れ・到達点の一つかもしれない。

だがそうなった愛好家・ファンからの発信は、もはや「個人の立場で書かれた感想・レビュー」というスタンスから離れている。記事中で関係者の名前が挙がったときなど、正直「提灯記事かな」という目を向けることすらある。ゆえにチェックはしても、熱心に読まなくなる。私などは、他の「一般人」らしき人物が書いた記事をまず探しに行くようになる。

実は、これは1.で書いた状況と近い。そう、彼らの背後には既に作家そのものや関係者の存在があるのだ。そして、愛好家・ファン心理を考えれば、背後を守ろうとするのが自然ではないか。そんな人物がどれだけ真に迫るかというと、甚だ疑問である。”プロ”でもなく、”ファン”でもなく⋯何だかやりづらい立ち位置のように感じるが、さすがにそこまでは詮索しない。

3.自身の状況が感想・レビューに過剰な影響を与えている

日記風に感想・レビューを書くのは別に構わない。例えば日常生活の雑談から本題へ⋯といったところか。ツイッター以上に長文が投稿できる環境なら、そういう文章の呼吸もあって然りだと思う。

だが自身の現在の健康状態や経済状態、境遇が作品の魅力を語るに不可欠な「前提」になっている文章を読まされると、少し違和感を覚える。

「体調が悪いときに読んで~」「この映画を観たときにちょうど家族が亡くなって~」「今進学目指して勉強していて~」、それらの状況を嘲笑したり、蔑んだりはしない。

しかし純粋に感想・レビューを求めて検索で辿り着いた人間にしてみると、少し唐突で、作品の評価をぼかしてしまうきらいがあることも確かだ。繰り返すが、全世界に向けて発信する感想・レビューとしては、作品そのものの感想は分けて書く、といった工夫が欲しい。何より、HNや匿名でこういう文章が書かれた場合、私的な内容の信憑性は、ハッキリ言って不明だ。証明しろとも言わないし、疑ってかかるつもりもない。だが、事実でなくとも別段驚かない。



上記のような視点で感想・レビューを漁って、取捨している。自分の書いた文章では、なるべくこれらの要素に当てはまらないものを提供できればと考えている。自戒も込めて、今回記事にしてみた。
ちなみに私が上記2.みたいな状況になったらどうするか。その関連のことは以後一切記事にしないか、記事を畳むでしょうね。

まあそんな日は多分、来ないかと思います。

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