クラシック音楽の演奏会場、あるいは演奏会終了後に、ふと芥川也寸志のことを思い出すことがあります。厳密に言えば、著書『音楽の基礎』(岩波新書)のことを思い出します。ここで、「ああ、あれか」とピンときた人もいるかも知れません。むしろ、既に多くが語られていてもおかしくない内容ですから。
- 作者: 芥川也寸志
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1971/08/31
- メディア: 新書
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この本の序文のように書かれた「1 静寂」という章で、「静寂」と「音」について、著者は次のように触れています:
われわれがふつう静寂と呼んでいるのは、したがってかすかな音響が存在する音空間を指すわけだが、このような静寂は人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせる。音楽はまず、このような静寂を美しいと認めるところから出発するといえよう。(中略)
音楽は静寂の美に対立し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。
すべての音は、発せられた瞬間から、音の種類によって様々な経過をたどりはしても、静寂へと向う性質をもっている。(後略)
これを踏まえた上で、次の文章でこの章は締め括られるのですが、これが大変印象的かつ考えさせられる内容で、私にとっての「芥川也寸志」が大きな存在感を示す要因になっています:
(前略)音楽の鑑賞にとって決定的に重要な時間は、演奏が終わった瞬間、つまり最初の静寂が訪れたときである。したがって音楽作品の価値もまた、静寂の手のなかにゆだねられることになる。現代の演奏会が多分にショー化されたからといえ、鑑賞者にとって決定的なこの瞬間が、演奏の終了をまたない拍手や歓声などでさえぎられることが多いのは、まことに不幸な習慣といわざるをえない。
静寂はこれらの意味において音楽の基礎である。
日本の演奏会で、演奏の終了を待たずに拍手や歓声(ブラボー)が起こる場面に遭遇することは、今でも多々ある*1。しかし特に熱狂的な演奏の終了直後、そういった拍手等の渦に巻き込まれるのは、正直悪い気がしないときも多い。
また、曲によっては、終了後に長い静寂を保つことを主催者・演奏者からリクエストされることがある*2。静まり返るホールの魅力は何にも代えがたい、と思う一方で、無理に静寂を作らなくても、と思うこともある。
そうした演奏会の帰途についた時に、ふとこの文章を思い出して、「今日の演奏会で、あの”瞬間”は味わえたのかな」「いや、もっと良い演奏会になっていたかも」などと一人で問答している。もし存命なら、この本が書かれた当時とそれほど変わりない現況をみて、どう思うのか…、聞いてみたかった。今年、一層そんなふうに思う。