伊福部昭はまだまだ知られていない、と思っている。ひたすら知名度があればよい、というわけではない。それは承知の上で、それにしても、という意味だ。
数々の蘇演から新音源、新作の発表、80年代から数えても40年経とうとしている。2014年の生誕100年もファンならば記憶にまだ新しいのではないか。ただ、そこにはやはり「ファンならば」という条件がつくと思う。あれから、伊福部昭の音楽がステージに乗せられる機会が増えたか。サブスクリプション隆盛にあって、ライブラリは充実していると言えるか。世界の音源を見渡すとどうだろう。『ゴジラ』を始めとした特撮映画音楽ですら、厳しいのではないか。少なくとも私には物足りなく感じる。
そして今回紹介するCDのような、新たな音源の発表に、ファンがささやかに潜り込む。作曲家をテーマとした一連のシリーズもののタイトルとわかっていても、今だ”純音楽”として峻別して売らなければならないこと、新しい音源がなかなか発売されないこと。そのことを見て見ぬ振りをし、「時代が来てる」「大発見!」と自らを奮い立たせたりする。そして、そんな「自分だけの」楽しみでもいいか、とまた閉じ籠もっていく。これが伊福部昭以外の日本人作曲家の状況となると、もう書くまでもない。
これは演奏家の問題でも、ないと思う。作曲者の意図を汲んだ、弟子筋あるいは作曲家を兼任する指揮者のような存在が日本にごく少ないから、といった単純な話ではない。なぜなら、文化の違いはあれど、海外では指揮者・演奏家に専念している者が国内外で脈々と自国の作品を演奏し続け、評価を得ているケースがあるからだ。
世間が、私が騒がなくとも、生前の作曲家には揺るぎない信念があったと思う。だからこそ、私は現況がとても寂しい。その信念の果実を少しでも、伝えたい。やはり伊福部昭の音楽はこれからなのである。
今年の状況を喜ぶことはできないが、この状況下で伊福部昭の音楽を公式に楽しむ機会を得ることができた。東京ニューシティ管弦楽団公式チャンネルの「シンフォニア・タプカーラ」(指揮:曽我大介)だ。”布教”と称する違法アップロードの温床に一石を投じるものになって欲しい(2022/9追記 パシフィックフィルハーモニア東京のチャンネルにて再配信中)。
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伊福部昭に限らず、日本人作曲家や演奏家を取り巻くファンの鑑賞マナーの悪さも根強い。録音にまで残るようなフライングブラボーの数はごく少なくなった。単なる事前注意だけでなく、演奏前にご丁寧に音楽鑑賞の姿勢までアナウンスする演奏会もある。もっとも伊福部昭のファンならば、音楽鑑賞の姿勢について門下の芥川也寸志が書いた『音楽の基礎』(岩波新書)の序文くらい読んで思い当たることがあるだろう。いや、伊福部昭のファンだから芥川也寸志も知っている(ファンだ)とは限らないか。これは失礼。
ただ、演奏中に音楽にノッて体を動かす人、これがまだいたりする。上掲の「タプカーラ」の演奏会当日、「SF交響ファンタジー第1番」でもいた。他の日本人作品でも見かける。興奮は理解するが、クラシック音楽の演奏会場である。いい加減マナーを憶えて頂きたい。そもそも後ろで観ていると視界にチラチラ入って迷惑である。想像がつかないのだろうか。そんな人物が休憩中や終了後ロビーで”お仲間”と演奏について喜々として語っているのを見ると、もういたたまれない。
こういう風に書くと、こんなところ(ネット)で書かないで本人に言え、などと言う向きもあるが、演奏中に注意のできない距離の席にいる場合も少なくないし、度を越したものは会場の係員経由も含めて当然注意している。それでもこういう輩が絶えないので書いている。CDの記事の前置きとしては長すぎるが、ファンの今を書くという趣旨もあるので記しておきたい。
CD『伊福部昭の純音楽』の感想
さて、12/23に発売されたCD『伊福部昭の純音楽』(Salida)の感想だが、演奏の変遷や改訂・版を追いかける楽しみに留まらず、これは、という唯一無二の魅力も満ち満ちている。できればこのようなディスクが最新録音でもっと登場すれば、と言いたくなるところだが、伊福部昭の音楽を知るにこのような過程がまだ残っていたということだろう。先は長い。ディスクの制作・成立過程については私が喧伝することではないだろう。私からは大いに感謝する、の一言である。
演奏の精度はディスク化を意図しなかったこともあるのだろう。分かりやすい演奏ミスも散見される。「吹奏楽のためのブーレスク風ロンド」など最たるものだ。ただ、それ以上にハッとする解釈や音像をぶつけてくる演奏もちゃんとある。
小林仁:ピアノ、若杉弘指揮読売日本交響楽団の「ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ」(1961/69 改訂第1版)は版の面白さもさることながら(決定稿より好きかもしれない)、ピアノの煌めきが凄まじい。同コンビがビクターに録音したときより、調子自体は良いように思う。ただ、冒頭の咳は勘弁してほしかった。余談だが、ムラヴィンスキーが指揮したショスタコーヴィチ交響曲第8番(1982年録音)のディスクを思い出した。
プロオーケストラ伴奏による「ヴァイオリン協奏曲第2番」も聴きものだ。協奏風狂詩曲(第1番)とは趣の異なる浮遊感、愉悦感がこの盤だとよくわかる。暗くて晦渋(ゴジラだけに)な曲、などと通り一般に片付けられない魅力が独奏とオーケストラにある。嬉しくもあり、当曲の演奏頻度含めて、改めて思うところもある。
収録曲では、近年になってラジオで再び紹介された、山岡重信指揮東京フィルハーモニー交響楽団の「シンフォニア・タプカーラ」(1982年録音)の正規発売をとりわけ紹介しておきたい。このディスク一押しの録音である。楽器の音色は朴訥としているのに、ここぞというところでのキレと破綻のなさに唸ってしまう。テンポ設定も絶妙で、芯のある響きを支えている。デッドな録音が演奏のインパクトをより強烈にしている。ときに過剰に各セクションの音を拾っている箇所もあるが、それすらこの独特な世界を表現するに寄与しているのが面白い。『伊福部昭の芸術』シリーズ(キングレコード)後半の、模糊としてハリのない録音(札響ライブなどよくなかった)より、よほど好みである。
第1楽章冒頭のレントからアレグロに移行する箇所など、実演だとプロのオーケストラでもバタバタ、ゴチャゴチャとまとまらない演奏に接することがあるのだが、ゆったりとしたテンポ設定が功を奏しているのか、トランペットを筆頭に目が覚めるような”キマった”演奏である。録音のハープの捉え方が良くて、第2楽章も惚れ惚れする。この調子で第3楽章は興が乗った演奏で、熱気と快速テンポだけではない、同楽章の魅力が炸裂している。山岡重信指揮の伊福部音楽であれば、あとは札幌交響楽団との「交響譚詩」の録音(LP・キングレコード)がCD化、配信化されることが私の望みである。
総じて、制作意図の通り「ファンならば」まず聴いて損のないCDだと思う。『ゴジラ』初めとした特撮映画音楽の話題とは一線を引いている向きにも受け入れられるだろう。既に話題にしているかもしれない。実際には特撮映画音楽の評価もまだまだなのだが。いずれにせよ、やはりこの音楽が、何としてでも広く聴かれて欲しくなったことは確かだ。