駅や公共施設でトイレを探していたら、入口に「清掃中」の看板が立っていたという経験はないだろうか。用を足したくてやっと見つけたのに使用できない。背に腹はかえられないので一応覗いてみると、確かに清掃員がいる。だが本当に立ち入れないほど清掃の手が及んでいなかったので、そのまま使用する。
清掃員から特に何も言われないし、実際私自身そんな機会が多く、以前は躊躇していたのに平然と使用するようになった。使用する時はこちらも無言だ。清掃員が女性でも関係ない。
女性用トイレの実態まではわからないが、男性用の場合、周囲を見てもどうやら同じ行動をしている様子だ。
しかし最近、再び自分がこのような場面でトイレを使用していて、ふと思い出すことがあり、少し戦慄した。
『アーロン収容所』(著:会田雄次 中公文庫、同新書)のことである。
- 作者:会田 雄次
- 発売日: 1973/11/10
- メディア: 文庫
この本で筆者が英軍兵舎の掃除をしたときのエピソードがある。知る人ぞ知る箇所かもしれない。以下引用:
私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信用されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない恰好をしているときなど身仕度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。
(『アーロン収容所』より「強制労働の日々」 中公文庫)
前述の「論理的思考」が日本社会でも重要視され、とりわけ以前よりもネット上で”他人”を意識する必要に迫られた昨今、それらに自分の生活文化や道徳心まで無意識に飲み込まれていないか。
清掃員という職業・存在を差別する気は毛頭ないのだ。しかし”トイレの使用”という、互いに干渉しない、暗黙の了解の中に上記引用のような感覚が無意識に芽生えているのではないのか。大げさかもしれないが、そこに戦慄したのだ。
『アーロン収容所』では、日本人の審美眼や西洋に対する羨望を看過した内容も見逃せない。以下引用:
たとえば「きたない」ということばが、あるいは卑怯、あるいは悪辣という意味を端的に表現するぐらい、すべての価値を美醜に還元する傾向がある。外来文化の摂取でも、文化自体よりも、その美に憧れたというようなところがある。
(『アーロン収容所』より「捕虜の見た英軍」 中公文庫)
では現代の我々は、当時と比べて、内面外面問わず、何か美しく、気高くなったのだろうか。
様々な憧れの果てに、荒(すさ)んでしまっていないか。
そんなことを考えて、清掃中のトイレは使用前にできるだけ「すいません」「使ってもいいですか」くらい確認することを最近は心がけている。清掃員は大抵、「もうちょっと待ってね」「(使って)いいですよ」と応じてくれる。ありがたいことだ。
それが日本人の、自分の、ささやかな防波堤なのかなと思っている。