こどもの日、端午の節句といえば鯉のぼり、そんなイメージで長らく生活してきた。
特に成人して以降は驚きも大した喜びもない、毎年の行事、いや祝日の一つである。鯉のぼりを間近で見ることも少なくなり、各地のイベント化しているように思う。
今日も全国どこかで鯉のぼりが泳いでいるんだろうな、などと怠惰に考えていて、ふと思い出した。
『独特老人』(編著:後藤繁雄 ちくま文庫)というインタビュー集の中で、この「鯉のぼり」の文化を称賛している人物がいる。作曲家:伊福部昭である。映画『ゴジラ』の音楽で幾度も脚光を浴びる作曲家である。
- 作者:後藤 繁雄
- 発売日: 2015/01/07
- メディア: 文庫
伊福部昭は鯉のぼりの大きさと泳ぐ姿を、藤原定家の立てた和歌の表現様式、和歌十体(じってい)にある「拉鬼体(らっきてい)」と据え、これを「日本の底力」とまで述べている。「拉鬼体」の解釈は種々あるかと思うが、ここでは”意志ある動的な表現”とでもイメージして頂きたい。以下引用:
一番感心するのは「鯉のぼり」です。こんな小さな鯉という魚を、空を海に見立ててザーッと大きく泳がせるというのは素晴らしい。
確かに「幽玄」の感覚も優れてるんですけど、日本にはワビとかサビばかりじゃなくて、「鯉のぼり」みたいな世界があるんです。
空想の、巨大な生物の表現に対峙してきた作曲家の、忘れたくない日本賛歌だと思う。
そして藤原定家といえば、『定家明月記私抄』(著:堀田善衞 ちくま学芸文庫)で、堀田善衞が色彩に注目していたことを思い出す。『明月記』を読み込み面白さを伝える本として知られているかと思う。余談までに、堀田善衞のインタビューも先に紹介した『独特老人』に載っている。
- 作者:堀田 善衛
- 発売日: 1996/06/01
- メディア: 文庫
堀田善衞は日記『明月記』に日々記された衣服衣装等の色模様が、いかに日記に、文化に華を添えているかを述べている。以下引用:
何もこの日だけではない、それはそのままに彼ら詩人たちが日常にどのような色彩生活――ということばがあろうとも思われないが――を持っていたかを知ることが出来れば、彼らのつくる歌なるものについても、たとえ意味として思想として空の空であるとしても、一つの文化を認知せしめるだけの取柄はあるのである。
鯉のぼりの鮮やかな色、空(海)との対比にも、改めて関心を寄せるところである。
つい先日新元号が発表され、「令和」の出典や解釈が話題になった。「令」、「和」、各々の字の成り立ちやイメージで賛否が論じられているのも見かけた。だが実際に新元号を迎えてみると、既に話題は別のところに移っているように見受けられる。決めるときだけ、決まったときだけ文化の素養は必要なのだ、そんな気がしてならない。
しかし我々が古典を紐解き着目すべきは、行事のカタチや体裁としてだけでなく、「鯉のぼり」ひとつを取ってみても、先人が生み出した日々の文化に日本を再認し、見出していくことではないだろうか。
今日は新たな気持ちで、鯉のぼりの魅力に思いを馳せておきたい。