デジタルエンタテイメント断片情報誌

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引退 そのときに 『土屋耕一のガラクタ箱』から

引退したことはありますか。

私は学生時代の部活くらいでしか経験がない。それも青春をかけて一心不乱に打ち込んだわけでもなく、そんな年次がきたから、じゃあね、程度の気楽な活動だった。

現在もっとも間近に引退する可能性があるものと言えば、仕事を引退すること、だろうか。それもいつになるかわからない。老後の資金がどうとかそういう話以前の問題だ。引退と一旦の節目をつけられるような職業か、役割かどうかすら定かではない。まだまだ働いてみなければ。


日本でコピーライターの先駆者といわれる土屋耕一が書いたコラム集、『土屋耕一のガラクタ箱』(ちくま文庫)の中で、大相撲とプロ野球の引退にまつわるコラムがある。

土屋耕一のガラクタ箱 (ちくま文庫)

土屋耕一のガラクタ箱 (ちくま文庫)

このコラムの中で著者は、相撲の断髪式、マゲを関係者がハサミを入れていく、あの式を「残酷な儀式」と嘆いて、こう書いている:

その体が、もう横綱としては通用しないことを、大勢の目の前で髪の毛を一本一本断っていくという形式によって確認し合うとは、あまりにもむごくはないか。

このコラムが書かれたのは1971年で、個人的にあの形式の断髪式が今も変わらず続いていることに少し驚きがあるが、故に今でも想像するに容易な場面だ。


一方で野球監督の引退するさまを挙げ、以下のように称賛している。

(試合が終わって)もうユニフォーム姿では二度と踏むことのないグランドを、いつものように静かな足どりで歩いていきながら、その途中で一度だけ帽子をとって三塁側のファンに短い挨拶を送った、といわれる。
 帽子を二、三回ふるだけの、短い挨拶。

 半世紀におよぶ野球生活の最後としたら、それは、あまりにも素気ないと人はいうかもしれない。でも、これで十分ではないか。男が引きあげてくる、その花道は、こんな風な簡潔なものでありたい。短い一瞥(いちべつ)がそのすべてであるような、爽快なものでありたい。


相撲と野球に対する贔屓や優劣ではない。それまでの活動・活躍があり、そこに残した爪跡があり、誇りがあればこそ、引退する様は短くとも、一瞬であってもあざやかに映り、さわやかな心地を与え、得ることができるのではないか、というのだ。

これは何も相撲と野球だけの話ではない。世のあらゆる職業において、通じる部分があるのではなないか。筆者が丁度、芸事を例に続けている:

思うに、ぼくの頭のなかで、花道とは、つねに引きあげてくる道のことらしい。

それも、なにか、まわりから惜しまれながら退いていくという、そんな道らしい。

これは果たしてぼくの独断なのかどうか、よくわからないけれど、たとえば歌舞伎の花道にしても、つよい印象を観客に与えるのは、大てい、引きあげてくる役者を見せるときの花道ではないのか。



昨今、その道のプロ、玄人とされる人々が騒ぎ立てている。家族を巻き込み、先輩後輩を巻き込み、会社を巻き込み、メディアを巻き込み、世間を巻き込んでまで、「辞める」「引退」だと騒ぎ立てている。

好きにしろと言いたくなるし、向こうも私のことなど歯牙にもかけず、好きにしているだろう。だが果たして彼らは、彼女らはこんな風に、自身を顧みて、最後のときを思い浮かべて行動に移しているのだろうか。



それとも最初から引退する気なんて、ないのかしらん。土屋耕一風にうそぶいてみた。

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