デジタルエンタテイメント断片情報誌

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ベートーヴェンの交響曲と日常01:ヴァーツラフ・ノイマン

クラシック音楽で、刺激を求めることが少なくなってきた。

かつては「激烈」「白熱」とか、「空前絶後」「この演奏を知らずして〇〇(曲名、演奏者名)は語れない」⋯この手の宣伝文句がついた音源(特にライブ録音で見かけた)を積極的に聴いていたと思う。いや、そんな宣伝がなくとも、「Live Recording」という録音記録を見ただけで胸が高鳴ったものだ。

だが最近はそういった音源をどうも再生する気にならない。たまに聴いて「良いな」と思うことはあっても、何度も繰り返して聴きたいとは、なかなかならない。一定の音量や解釈の好みはもちろん求めているが、何というか、刺激に依らない音の響きや音楽の振幅、そういったものが揃った音源が聴きたくなってくるのだ。これは何も今年になってそういう心境の変化があったというわけではない。

そんなことを考えていた今日この頃、今までベートヴェンの交響曲録音など見向きもしなかった指揮者の音源を聴いたのだが、これがなかなか素晴らしい。というわけで今回はヴァーツラフ・ノイマンが指揮したベートヴェンの交響曲の話をしたい。ノイマンはちょうど2020年で生誕100年(1920年9月29日生まれ)だね。

※前回の記事:

ノイマンのベートーヴェン交響曲

日本のクラシック音楽ファンの間では知名度の高い指揮者ではないか。とりわけドヴォルザーク、スメタナ、マーラーの録音では今だにこの指揮者の録音を推す向きも少なくない。

ただ私がクラシック音楽を聴き始めた頃のノイマンの評価は、上記の録音も含めて「定評はあるがさほど人気はない」といった印象だった。音源(CD)は新品でも中古でも手に入れやすかった。廃盤で殊更プレミアがついている様子もなかったと思う。

最近でも見かけるが、ノイマンは指揮者としての実力よりも、チェコ音楽界でのいわゆる”政治力”の話題で引き合いに出されることがある。ノイマンの影響下で他の演奏家(指揮者)が日の目を見なかった、といった類のものだ。かくいう私もそういった知識が先行し、「そんな人間の作る音楽なんて」などと逡巡してノイマンの指揮した音源を聴いていなかった時期がある。

だが考えてみてほしい。実体験はおろか直接関係者から聞いた話でもない上、真相すら定かでない話を鵜呑みにして毛嫌いする必要がどこにあるのか。まして今や配信やダウンロードで手軽に音楽が聴ける時代だ。たまたま聴いて良いなと思った演奏が、自分の好みではないだろうと思っていた演奏家の演奏だったこともある。演奏(家)の背景やエピソードは傾聴に値するが、演奏、音楽そのものの評価にまで安直に結びつけることはないのだ。


そんなわけで音楽にのみ向かい合う、とは大げさだし語弊があるが、ノイマンがチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と残したベートヴェンの交響曲の録音を聴いている。ノイマンのベートヴェンは全集になっていないし、残された録音も少ない。

これが記事冒頭で書いたとおり、素晴らしい。特にノイマン晩年のスタジオ収録・デジタル録音のことだ。今までロクに聴いていなかったことを悔いる気持ちと、なぜ話題にならないのか不思議な気すらする。まず交響曲第7番は楽器のバランス、テンポ設定、軽やかさと重厚さ、そして録音と「絶妙」である。飽きのこない、音楽に包まれ浸れる、潤いのある演奏だ。配信がなくCDでの購入になるのが残念だが、これは購入してアタリだった。

ベートーヴェン:交響曲第5番&第7番

ベートーヴェン:交響曲第5番&第7番

第5番(上記カップリングは旧録音)や第8番も同様。優しく、鑑賞後は多幸感をもたらす演奏である。通俗化した第5番の第1楽章でさえ切迫した、四角四面の演奏ではない。曲を通じた意図が感じられる。それが後半の楽章をより光らせる。第8番はときにアグレッシブさも入り、充実している。ノイマンには晩年、ベートヴェンの交響曲全集を作って欲しかった。サブスクリプションでは下記リンクの通り、第5番だけが聴ける様子なのがこれまた寂しい。

ベートーヴェン:交響曲第5番&第8番

ベートーヴェン:交響曲第5番&第8番


これらの演奏を聴いて、ノイマンだけでなくチェコ・フィルに今更ながら興味が湧いてしまった。かつてクレツキのベートーヴェン全集を聴いたことがあり、そのときは残響が少ない録音状態や乾いたオーケストラの音が期待と違い、以来関心をなくしていた。実はアンチェルの幾つかの録音も似たような印象を受けていた。特に巷のアンチェルの録音評など、今だに疑問を感じる点もある。有り体だが、やはり聴いてみなければわからないものなのだ。

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