デジタルエンタテイメント断片情報誌

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「早すぎた」老老介護と家族についてのボヤキ 

まず、今ならもう少し話題になっていた新書なのではないか、という感想である。20年前の新書である。

『どこまで続くヌカルミぞ 老老介護奮戦記』(著:俵孝太郎 文春新書)は、老老介護における身体的・精神的苦労、そして家族との絆や愛情あってこそ、といった体験談やアドバイスを綴った本ではない

どこまで続くヌカルミぞ―老老介護奮戦記 (文春新書)

どこまで続くヌカルミぞ―老老介護奮戦記 (文春新書)

親子の軋轢、兄弟との諍い、嫁・姑問題⋯著者はこれらを自身の『ボヤキ』と称しているが、読めば「世の中あるある」の内輪揉め大暴露なのである。存命の親族・家族もいるだろうに、よくここまで赤裸々に書いたという内容だ。

著者の父親は戦前からの元銀行員で、母親は旧家出身。見栄や世間体を人一倍以上気にし、年老いてその振る舞いが横暴さを一際増す。良識ある親族は著者の両親から疎遠になっていく。その上、著者の母親は著者の兄弟(妹2人)を取り込んで、著者は孤軍奮闘状態である。両親2人を介護する体力・気力の問題だけではない。前述の見栄や世間体に起因する、両親の「カネ」に対する執着にまで悩まされるのである。

両親をいざ著者が引き取るかどうするかという段になって、著者の妹2人にははまるで信頼感がない。その割に2人は口だけは出す。その理屈も著者にはお見通しだ。以下引用:

妹たちが、もはや絶対に親の介護という災難が降りかかってくることはない、という安全地帯に立って、親たちに対しては無責任に調子を併せて自分たちも心配しているというメッセージを伝え、自分たちとしても親のことは始終気にかけているのだという自己満足を得ようとして、私たちに介入していることは一目瞭然である。

これがまた、”一億総コメンテーター”の時代になかなか耳が痛くなる。


著者の母親は、家族(著者の家族)がいかに自分をないがしろにしているか、医者にもウソをつく。実際には両親の住居は全額著者が負担、家には家政婦もいて、病院へは車(またはタクシー)で送迎をし⋯本書にはこれ以上のケアの様子が書かれているのに、である。母親のウソを著者が妻(家内)に、医者に事実確認し、両親に釘を刺す。特に妻に与えた不条理に対して著者が度々起こす怒り爆発の行動は、両親を徹底して理詰めに攻めたてる。だが、そう”ならざるを得ない”状況であり、思わず溜飲が下がってしまう。著者(男性)が何もせず⋯といった印象はない点に、むしろ”漢”を見るときがある。そんな実体験が綴られている。以下引用:

超高齢者の介護というと、呆け老人がいちばんたいへんだと思われている。しかし、呆けていないからこそたいへんだ、ということも世の中には存在する。

極めてしたたかな超高齢者も決して少なくない。極端に利己的で自己中心的になるのも呆けの一種だ、といわれればあるいはそうなのかもしれないが、相手が確実に引っかかるように、ただし万一作為がバレても屁理屈で居直れるように、表現を考えに考え抜いた上でわさとトラブルを起こす性癖を持つ老人の悪知恵を、呆けなどといって大目に見ていたり、まして侮ったりしたら、えらい目に会わされることになる。


今だ根深い問題であり、著者が抜本的な打開策を打ち出しているわけではない。ただ、多様性を享受する昨今にあって、こんな家族もあって、こんな問題点もある、そのことを老老介護というテーマで綴った先見性に、「早すぎた」と称賛しておきたい。著者や私自身が家族の情を理解していない、といった誤解を避ける意味でも、最後に引用しておく。

父母ともにいますは人生至上の幸せ、という。さはさりながら、二人の超高齢の親を扶養し介護するのは、あらゆる面で容易ならぬ負担である。至上の幸せ、などといわれながらそれに耐えなければならない高齢者と、父母ともにみまかってもはやいまさぬ不幸せのために、その必要のない高齢者との間に、自らの人生の秋を迎えて明暗極端な差を生じさせるような社会の仕組みが、果たして公平・公正といえるのか。

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