デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

もっと音楽との時間を 『名指揮者との対話』

今でこそ自宅ですぐに音楽が聴ける環境がある。配信やダウンロードサービスは年々便利になり、作曲家名や演奏家名で検索すれば、目当ての演奏がヒットする確率が高くなった。

私がクラシック音楽を聴き始めた頃は、まだそこまで便利な状況ではなかった。買う、借りる、エアチェックする⋯それらに費やす時間が少なくなかった。正直その行為を楽しんでいたフシもある。今だに「迷ったら買え」の教訓は根深く、何かと心を揺り動かしている。

もちろん音楽雑誌やムックを読み漁り、お目当ての作曲家や演奏家情報の収集にも勤しんでいた。演奏を聴く前から、「アタリ」を引き当てたい。当時の金銭事情だけでなく、趣味に対する自意識過剰な面があったことも否定できない。


ただそんな中で、作曲家や演奏家との幸福な出会いもあった。過剰な思い入れや自己の売名、宣伝の影をチラつかせず、読者にもっぱら興味を与えてくれる⋯。そんな出会いを生んでくれた評論家、ライナーの執筆者の名前は自然と記憶していた。

まず名前が思いつくのが三浦淳史。エピソード紹介が抜群に上手く、知識や経験を誇示するでもなく、洒落た文章に仕上げているのが印象的だった。イギリス音楽、特にブリテンの曲を聴く度にこの人の書いたライナーを思い出す。そういった演奏家や作曲家のエピソードを集めた『レコードを聴くひととき ぱあと1、2』(東京創元社)も読んだ。


近年では、『名指揮者との対話』(著:青澤唯夫 春秋社)を読んで音源を求めたり、コレクションを聴き直したりしていた。

名指揮者との対話

名指揮者との対話

著者は音楽の素養があり、世界の指揮者や演奏家、団体と一定数の面識がある。そこに裏打ちされたインタビューは、日本人のインタビュアーでなかなかない、「よくぞ聞いてくれた」というような鋭いものが多い。交流ある指揮者に対して敬意を忘れない一方で、その活動の変遷や発言に忌憚のない意見をきちんと投げかける。だが主体はあくまで指揮者なのだ。ここにこの本の、著者の妙がある。


例えば本書の対談を読んで、チェリビダッケに対するイメージが変わった。”私のあとにも音楽はある”ということばに、チェリビダッケが開いていた門戸をようやく見つけたような気分になった。


「名指揮者」の守備範囲は広く、ストラヴィンスキーやチャイコフスキーで興味を持ったマルケヴィチのインタビューも載っている。”レパートリーというのは自分自身の存在の限界を示すようなもので、ほんとうの指揮者はすべてのものができるようにならなくてはいけない。それをいつも言っています”⋯「存在の限界」に耳が痛くなった。


まだまだ、語る口を閉じ、記述する手を止めて、音楽に耳を傾ける時間を増やさねばなぁと思う。

スポンサーリンク