デジタルエンタテイメント断片情報誌

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思えばまだ世紀末だった 吉松隆『世紀末音楽ノオト』

クラシック音楽の裾野を広げる、そんな活動が行われているのを生まれてこのかた、ずっとみてきた気がする。種々のファミリーコンサート、少年少女のため音楽会、午後のクラシック⋯パンフレットで演奏家のインタビューを読むと「これがクラシック音楽の裾野を広げる機会になれば」などと書いてあったりする。


要は普及してないんでしょうね、クラシック音楽。

だいたい、裾野を広げ続けていると、いつまで経っても頂上に辿り着かないのではないか。これは種々の普及活動に言えることだけれども。

それで頂上に辿り着かないとなると、今度は深く深く潜っていく。知る人ぞ知る、マニアックな、ネットで大人気の⋯私が関心のある現代音楽、特に日本人作曲家の音楽はその類が多いと思う。手あたり次第から、人を選びに選んでくる。そして私のような人間が、クラシック音楽の頂上へ続くかどうかわからない、横穴やら地下道を歩いたり走ったり寝転がっている。たまに麓にやってきて「やっぱ名曲って良いもんだわね」などと反芻する。


ここまで鬱屈はしていないが、長年クラシック音楽を取り巻いている状況をもっと理知的でシニカルな文章を交えつつ、テンポよく伝える音楽談義がある。作曲家・吉松隆の『世紀末音楽ノオト』(音楽之友社)だ。

世紀末音楽ノオト

世紀末音楽ノオト

1994年に初版が発売された本だが、既に当時にあって「クリエイティブ」すらひとつのメディアパターン、と喝破する文章は”当事者”の自虐めいていながら、本質をつく。そしてそれがクラシック音楽の世界だけに限らないことに気がつき、真顔になる。

個人の関係と社会についてはギタリストの山下和仁の言葉が刺さる。「僕はもしかしたら、人とコミュニケイトしたいからじゃなくて、したくないから音楽をやっているんじゃないか、と最近そう思うことがあるんだ。」(P.126)


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日本のクラシック音楽はどうあるべきか、打開策はこうだ、そんな持論を展開しているわけではない。だが日々折々に諦念や悲哀を交えつつも、今世を生きる作曲家の”あがき”に肯きたくなる一冊である。少し長いが引用しておきたい。

しかし、自分たちが産んだわけでも育てたわけでもないものを、うわずみだけかすめ取って歌いたてる。いい度胸してますね、われらが日本という国は。誰かが無から懸命に創り育てたものを、横から来て黙って品定めして、使えるものだけ(使える期間だけ)使いまくる。これは見事なまでに完璧な経済の王道です。実に素晴らしい感性! こうでなくちゃお金は貯まりません。一億円儲けたから、百万円ほど文化を買おう。いい根性じゃないですか。しかし百万円しかなかろうと一億円を費やす。それが文化なんですけどね。


私も僭越ながら音楽記事を、ちったあ頑張りたくなった。

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