デジタルエンタテイメント断片情報誌

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曲と演奏の意図 『オーケストラの読み方』から

クラシック音楽が好きで、やはり交響曲、管弦楽曲といったジャンルは外せない。特に弦セクションの働きによって、曲の好みが決まることが多い。

そんなクラシック音楽、オーケストラの曲を聴いていると、楽譜が気になってきたので、スコア・リーディングの入門書を探して読んだ。『オーケストラの読みかた』(著:池辺晋一郎 学習研究社)は、楽器の配列、特徴、編成から、有名曲のスコア(楽譜)を例に各セクションの動きや奏法を紹介した本だ。

実際にスコアを読む項になると、全くもって知識がなくても大丈夫、とはさすがにならない。だが、前述の有名曲を例にした解説は明快で、作品そのものにも興味が沸く。その辺りは著者がTVを始めとしたメディアで活躍しているのもあって、さすがというところだ。クラシック音楽が好きなら楽しめる内容だと思う。

この本に「作曲家の意図は読み取れるのか」(P.155)というコラムがある。作曲家のスコアに対する考え方と演奏家の演奏についての話なのだが、簡潔で素直な心情を書いた文章なので話題にしておきたい。

著者・池辺晋一郎はご存知の通り、ダジャレ⋯、ではなく、作曲家だ。そして自身の書いた楽譜は演奏家が「それをどう料理しようが(すなわちどう演奏しようが)意に介さない」タイプだと言う。ただ一方で「自分の思いを徹底的に演奏家に伝えないと気がすまないタイプ(※作曲家)もいる」とのこと。

著者自身は「自分が予想もしなかった演奏を楽しむ」タイプであるとした上で、

どちらにしろ、どんなに精緻に仕上げたつもりでも、楽譜にすべての情報、すべての思いは書き込めない、ということだ。だが、そのことこそ、楽譜のおもしろい点だ、と僕は考える。

と示している。さらに興味深いのはここからで、

とは言え、優れた演奏家は、しばしば「楽譜から作曲家の意図を読みとることが大切」と言うものである。
(中略)
やはり作曲家は、できるかぎりのことを楽譜に込めなければいけないのだな⋯。自戒しなければ⋯。うん。

何だか、ちょっと自嘲的な文章でまとめているのだ。著者らしいといえばそうだが、私自身も思い当たる節があり、少し唸ってしまった。

まずクラシック音楽を楽しむとき、我々はどれだけ作曲家の意図を意識しているのだろうか。耳に心地よい、メロディ・ラインが好き等の楽しみを否定するものではないが、意に介さないことも多いのではないか。

そして読み取ろうとしたとしても、例えば今回紹介した本を読むような人間が、果たして作曲家の意図を読み取れるのだろうか。要は”聴き専”だとしても可能なのか。

また、上記引用の文章はおどけているが、裏を返せば演奏家が「作曲家の意図とは異なる演奏」をしている場合もあるということだ。現役の作曲家ですらこんなことを書くのだから、この世にいない多くの作曲家の意図なんて、現代の演奏家がどれだけ汲んでいるかなど、見当もつかないというものだ。これは演奏家だけの現象ではない。演奏家ではない”素人”だって、音楽を聴き、スコアを読み、楽器を演奏して「作曲家の意図」について表現したり、言及することがあるのだから。その「意図」は本当に作曲家の⋯というわけだ。

こんなことを考えていくと、クラシック音楽の感想でありがちな「これこそ〇〇だ」、「これは〇〇の音楽ではない」(〇〇=作曲家名)みたいな文句が途端に訝しいものに感じてくる。演奏家に注目するのはクラシック音楽の常だが、例えば演奏家の名前と演奏した作品名を挙げつつこのように述べてしまうのはやはり早計、となるわけだ。耳が痛くなってきた。

まあ「〇〇の音楽ではない」は音楽だけでなく、周囲に対する否定の意味も込められてしまうのでさすがに私は使っていないが。「これこそ〇〇」は近い表現を多分やってるなあ。


まずはスコアでも読める・わかるようになって、穏健な感想を書けるようになりましょうかね。

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