デジタルエンタテイメント断片情報誌

デジタルな話題もそうでない話題も疎らに投稿

「感想」を書く時に気にしていること

”気をつけていること”にしなかったのは、自分でもついやってしまったことがあるからです。

音楽から映画、ドラマ、アニメ鑑賞、読書⋯これらの趣味で発信される、あるいは発信する「感想」で、注意していることがある。

「面白い」という感想しか書かない、「つまらない」とハッキリ書く、そういったことではない。


それは、作品の印象・評価に関わる部分に余計な知識、または"事情通"然とした情報を載せていないか・触れていないかという点に尽きる。

例えば「このシーンの撮影時のエピソードが~で」、「このカットは現場で打ち合わせた結果云々」、果ては「作者が当時病気で」等々。そういった裏話や薀蓄を語り、記事にする楽しさは知っている。だが感想を書くときは、作品の内容とは別立てて触れることにしている。実は作品の「ネタバレ」よりも過敏になっているかもしれない。

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現代でこのような情報を遮断する、あるいは遮断せよという話は難しいと思う。ネットでの情報収集が「自分で検索」ではなく、RSSリーダーで「収集されたものをチェック」するようなスタイルに変わっている昨今、見る気・知る気がなくとも触れてしまうというものだ。


そんな現況を思い起こす文章が、映画監督:伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫)に明快に綴られているので引用しておこう。以下引用:

つまり、人々はもはや映画を信じなくなってしまった。早い話が『クレオパトラ』を見にいったとして、誰がエリザベス・テイラーをクレオパトラと思うかね。


つまり、人々は知りすぎてしまったのだ。つまり、人々は映画館へ出かける前に、すでに、いわゆる「パブリシティ」を吹き込まれるだけ吹き込まれている。


だから、彼らは映画を見ても、主役二人のラヴ・シーンに感激する前に、「あの二人は、ああ見えても実はすごく仲が悪いんだって」などと得々と話すようになるのだ。


(『ヨーロッパ退屈日記』 P.198 新潮文庫)

この本が書かれたのは50年位前だが、その当時ですら現在とさほど変わらない事情なのがうかがえる。そして現在なら尚の事というわけだ。伊丹十三以外にも、同じようなことを言っている人間はおそらくいるかと思う。

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

問題はそれだけではない。実際にこの手の情報を受け取り、流してしまう人ほど熱心なファンであり、前述の事情通、関係筋と称する人物だったりする。ファンのコミュニティ内で熱が冷めてしまう瞬間があるのは、そういった情報が作品を成立させる前提条件のように語られ、各々に交換されるのが原因であることも少なくないのではないだろうか。

要は「この作品がもっと楽しめる」つもりの情報提供だったはずが、妙な先入観や興ざめする後知識を植え付けられるのだ。関係者自身がSNSで発信してしまうことも極当然にある。

そして個人が抱いた作品自体の評価・印象を離れて、それら情報だけが喧伝され独り歩きすることが、何より怖い。実際、そんな情報が滲み出たような”感想”・”考察”の記事タイトルを見かけることが多くなり、正直辟易している。

私自身それらに影響・触発された経験を踏まえ、最近ブログで感想記事を書くときは、「~の感想」、「~に寄せて」と敢えてシンプルにするようにしている。この際、人目は惹かなくてよい。僭越ながら、中身の感想に触れてもらえれば。


感想を書くのは自由、ネットに溢れた情報を吸収、利用するのも自己責任⋯各人の表現を規制しようなどとは微塵も思っていないが、どこかで作品を味わう楽しみや面白さを「まやかし」にしていないか、ささやかに気にしている。

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