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作曲家が小説を書く 日記も書く 『プロコフィエフ短編集』

作曲家の書いた文章を読む機会は比較的多い。音楽技法から自作・他作の解説感想、日記、寄稿文⋯現代に近づくにつれて、「文章は読んだことがあるけど、曲は知らない」という認識をされている”本業”作曲家もいるのではないか。

そんなところで、作曲家としての知名度ありきで『プロコフィエフ短編集』(群像社ライブラリー 著:プロコフィエフ 訳:サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子)を遅まきながら読んだ。

作曲家プロコフィエフが書いた短編小説と日記、それも1918年頃の日本滞在日記をまとめた本で、作曲家自身への興味もさることながら、当時の西洋音楽と日本の様相もうかがい知ることができる一冊。


まずはプロコフィエフの多才な一面を示した⋯というのは各自読んで判断頂きたいが、短編小説について。

なるほどこれはと思ったのが、本書の宣伝・感想でよく名前が出てくる『彷徨える塔』。エッフェル塔が歩き出す話である。その情景を思い浮かべるだけで楽しめる。チョットだけ動いた、パリでひと暴れ、のレベルではないのでご一読を。

そうそう、実は歩くだけではない。あまり詳細に書いても仕方ないので、わかる人にはわかりそうなヒントもどきを。『ゴジラ対ヘドラ』。このくらいにしておこう。

あとは正直、私にはあまりピンとくるものがなかった。文章の読みづらさや理解出来ない、そういう引っ掛かりはなかった。内容的にね、という感じである。ベタだが少し続きが気になる『死んでしまった時計屋は⋯』くらいかな。死後の世界ってやっぱりそういう発想になるんだな、と。

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日本滞在日記は興味深い。正直こちらだけで記事にしてもいいくらいだ。せっかくの”プロコフィエフ作品”を無下にすることはしなかったが。

まず日記で綴られる当時の世界状況、日本と日本人の様子が端的で、ときに鋭い。音楽の世界史・日本史にも触れられる。以下引用:

それにもまして私にとっては、アジア人や半ヨーロッパ人より、理解のある聴衆の前でコンサートを開くことに大きな意味があるのだ(もっとも、アメリカの聴衆の理解力もさほどあてにしていないが)。
(『プロコフィエフ短編集』 群像社ライブラリー P.183)

アメリカもか、というのが現代の感覚では少々意外で、私などはストラヴィンスキーのことなどを思い出したりする。


また日本人の聴衆の反応については、現代まで見透かされているかのような書きっぷりだ。コンサートで安い席(五十銭)に集まっていると書いた上で、以下引用:

一方で非常に注意深く聞いているが、その一方で、どんなに注意を払ってもわかっていないのは明らかで、彼らにベートーベンのソナタを聞かせようが演奏者の即興を聞かせようが、違いがわかりはしないのである。日本人の気をひくのは上っ面の面白さ。例えばヴァイオリンのピチカートとか、玉を転がすようなピアノの演奏など。こうした聴衆の前で二度ほど弾くのは面白かろうが、それ以上やる気にはなれない。
(同 P.190)

他にも日本で当時音楽に傾倒していた徳川頼貞から作曲を依頼される下りは、現実的で生々しい。音楽の評価は作曲経緯よりまずは曲自体の出来だと思っているが、「そんな風にして曲ってできるものなのだな」と達観することしきりである。


小説、日記、どちらも楽しめる内容の本だった。それでは本業、マルティノン指揮パリ音楽院管弦楽団で交響曲第7番でも聴こうか。演奏会用ラストも悪くないもの。

Symphonies 5 & 7

Symphonies 5 & 7

  • 発売日: 2004/04/13
  • メディア: CD

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