デジタルエンタテイメント断片情報誌

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徒然日記

記事タイトルだかブログ名だかわからなくしてやる。そんな気はないが、一頃は多かったのよ。ひらがなで「つれづれなる~」みたいなブログ名が。今もチラホラ見かけるかな。いや他意はないです。どこかの記事で「どいつもこいつも『徒然草』かよ。やるな吉田」みたいなことを書いた記憶がある。

それだけ『徒然草』の知名度も高いという証左なのだろうが、全編を改めて読む機会は少ない古典かと思う。学校で習う古典としては比較的興味を引きそうな内容だが、そこで終わり、という作品だ。

ただ、かといって全編素晴らしいかというと、正直そうは思わない。それこそ現代でSNSに書き散らしたりすると物議を醸しそうな話もある。今回はそんな『徒然草』のチョット気に留めている所だけ、サクッと語りたい。この「サクッ」が、兼好リスペクトなわけよ。既にダラダラ感漂っている文章でアレだが。

twitterにbotがあったり、現代語訳・面白訳が世に溢れている吉田兼好の『徒然草』だが、個人的には学習目的に読解・解釈したものが、解説・訳も丁寧で『徒然草』の世界を理解しやすいように思う。ウケを狙わずとも素材が元々面白い、というわけだ。

ネットで徒然草が読めるかと言うと、読める。今回の記事の原文はJapanese Text Initiative | Electronic Text Center(University of Virginia Library)のリンクから引用する。

第百二十九段 小さい子を騙したり、からかわないように

子供の頃、親を始めとした大人に嘘をつかれたり、冗談を言われたことはないだろうか。そして素直に信じてしまい、本気になって焦ったり、場合によっては恐怖で泣いた経験はないだろうか。そんなことしちゃダメよ、という段。

又、いときなき子をすかし、おどし、いひはづかしめて興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐しく、恥づかしく、あさましき思、誠に切なるべし。是をなやまして興ずる事、慈悲の心にあらず。
(『徒然草』第百二十九段より) 

論語から話を進めて、この後さらに「身をやぶるよりも、心をいたましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。」(体よりも心を痛める方が、人には害が大きい)とまくしたてているが、大変納得。この段は小学校低学年までに教えても良い気がする。

第二百三十六段 珍しい配置に感動したら⋯

結構有名な段かもしれない。神社にある狛犬と獅子が互いに背を向けていて(通常は顔を向かい合わせている)、それを見た上人(僧)が、「何か深い理由があるのだろう」と感動した上、周囲にも「これに気づかないとは情けない」などと言っていたら、神社の神官が「子供のいたずらです」と配置を直した話。引用部の、上人の涙を流すほどの(「涙ぐみて」)感動があるから、一層オチのパンチが効いている。

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上人いみじく感じて、「あなめでたや、此の獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と、涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝の事は御覧じとがめずや。無下なり」⋯

(『徒然草』第二百三十六段より)

映画やドラマ・アニメの感想・考察の類を読む度、あるいは自分で書く度にこの段を思い出す。純真さや、知識・経験に感服するべきか、はたまた曲解・穿った見方に過ぎないのか、実は吉田兼好もその辺りは明記していない。だからこそ考えさせられる。現代なら、「周囲にウケたい、注目されたいがため」という要素も加わりそうだ。


面白おかしさよりも、現代まで喝破されているのか、いや単なる皮肉・嫌味か? そんな語り口が今でも癖になる古典です。

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