デジタルエンタテイメント断片情報誌

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邦画と特撮、アニメに寄せて 18/4/1週 余命

この時期は「初々しさ」や「春らしさ」を話題にしたら負け、みたいなことを思っている時点で惨敗なんでしょうね。
でも、まだまだ冷えるくらいの春が好きです。

今回は特撮はお休みして、命にまつわるお品書き:

邦画:『生きる』(1952)

どうにも有名な作品で、正直こんなポッと出の記事にしなくともという感じですが、だからこそ誰が何回採り上げてもいいじゃないか、ということで今回は『生きる』(1952 モノクロ作品・上映時間:2時間23分)。毎年この時期になると鑑賞し直すことが多い作品です。未見の方にはなるべく前情報なく観てもらいたい作品なので、特に後半のネタバレはなしで書いておきます。

生きる

生きる

市役所の市民課長・渡辺勘治は30年間無欠勤のまじめな男。ある日、渡辺は自分が胃癌であることを知る。命が残り少ないと悟ったとき、渡辺はこれまでの事なかれ主義的生き方に疑問を抱く。そして、初めて真剣に申請書類に目を通す。
allcinema: 映画データベースより)

この時期会社で退職者を見送ることが多く、その度にこの映画を思い出します。人生の終わり、生命の終わりと社会人生活の終わり。どちらも見えるようで見えないかと思ったら、突然やってくることがある。順風に終わるかと思えばそうはいかない。人生で、仕事で成すべきことは? 周囲はどんな事を考えているのだろうか。そんな話を誰かとしたいと思いつつ、去る人を見送る。そして次の日には平然と仕事に戻る。でもそれでいいのか。そんなことを考えさせられます。

役所の雑然とした雰囲気は今尚残っているなあと思うことしきりですが、単なる”お役所仕事”の批判に留まらない、人間が無意識に社会に染まっている様を描いており、まさに痛烈です。

今の感覚で映像化されたなら、ひたすら主人公の境遇を主人公の視点で描いていくのでしょうか。観客が、主人公の苦しみや努力に共感できるような映像が繰り広げられるかもしれません。ですが、そういう視点で主人公を映していないからこそ、主人公の姿が浮き彫りになる構成です。そこへいくと、近年の作品は喜び・悲しみへの誘導が分かりやすい、悪く言えば少々あからさまな作品が目立つ気がします。

アニメ:『ダーリン・イン・ザ・フランキス』第12話

やっぱり「ロボット物」とは言い難い雰囲気ですね、この作品は。MXでやってたCMじゃないですが、どちらかと言うと特撮に近いですかね。もしくは恋愛物でも・・・良さそうだ。

新たなステージを見せるように移動・立ち寄りするのは良いですね。画面も新鮮で。こういうところが丁寧なので、戦闘や叫竜のパターンが単調に感じるのがすごく惜しい。ゼロツー・ヒロメインの話になると、ストレリチア以外のフランクスが極端に目立たなくなるのも少々寂しい。

初期の話のようにテンポと勢いで見せるのではなく、OPやこれまでの話で散りばめた伏線をじっくりと明かしていくのですね。謎を増やして「説明不足」に陥ることなく、堅実な構成で進めるのかなという印象です。まあ昨今は情報が早く、公式サイト等で設定やら何やら解説しちゃうので、あまり丁寧すぎても盛り上がりに欠けたりしますが。案外、”考察”しがいがありそうで、その必要がない作品なのかもしれません。

そうそう、イチゴがゼロツー・ヒロの身体に関する話を立ち聞きしたシーンについては、物語なのでもう少し必然っぽく誘導して欲しかった気がします。偶然の要素を盛り込むのが悪いわけではないのですが、いつものナナ・ハチの会話シーンと違い、「聞かせる」イベントのためだけにあの場所で話をさせていた感がありました。これは実写のドラマでもよくあるシーンですが、イチゴを関係者に仕立てたかったという意図がわかるだけに、ねじ込むのに苦心した場面なのかなという印象です。

ゼロツーの正体はどうなんでしょう? 本当に人間になれるのか? 今話までの描写だとゼロツーの境遇に”同情”を誘っている気がしますが、本当にヒロの告白のような綺麗事だけで生きていける世界なのかという謎は残ったままです。まさに生き地獄、ということも有り得ますわな。

そして”餌”発言も大概ですが、『ウルトラマンA』のヤプール人みたいに、信用した相手に対して「ボクを信用するのはお前(人間)くらいなもんだ」なんて、更に奈落に落とす展開は・・・流石にないか。あ、餌といえばツインテ・・・やめとこう。来週もみんなで観よう。

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