デジタルエンタテイメント断片情報誌

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受験生に捧げる

そういえばセンター試験の季節ですか。私も当時は「この期に及んで頑張って何とかなるなら、皆そうしてる」となどと思いつつも・・・勉強していなかったかもしれない。ああ、していなかった気がします。録画しておいた洋画を観て、センター後の1月は今話題の相撲を欠かさず観ていたことは記憶しています。丁度良い時間帯なんだ、あれが。
まあ受験生には、こんな話に惑わされないで頂きたいと思います。

今日はそんなわけでエッセイでも、『再び女たちよ!』(伊丹十三著 新潮文庫)の話です。洒落たナカミの『ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)』(コチラもオススメ)から時が経ち、個性が際立ってきた頃の伊丹十三のエッセイはやはり読ませる。

再び女たちよ! (新潮文庫)

再び女たちよ! (新潮文庫)


元々高校生の頃から、

 ともかく毎日風呂にはいり、毎日髪を洗う。時には朝と晩と、一日二回洗うこともある。こんなに洗っては髪に悪いのかも知れぬが、なにしろ高校時分からの習慣だから今更変えるわけにもゆかぬ。(『再び女たちよ!』 P.341)

なんて感覚だったようなので、こだわりや行動だけで面白い。ロンドンで髪が抜け始めたことに気づいた時など、

 女房は実務的に事を運んだ。ただちに実家へ電話をして航空便で養毛剤を取り寄せた。この種の薬品の世話になろうとは、ついぞ考えもしなかったが、追い込まれてしまった我が身の上を思えば、今は一縷(いちる)の望みをここに托すしかない。(『再び女たちよ!』 P.344)

インターネットのない時代にこの機敏さなわけです。

その後、日本に帰国してから医者を訪れたり、対策を講じる様子も可笑しい。なかでも以下の心情表現が切迫していて印象的です。

 私は実に情けなかった。
 髪が脱けるということ自身も確かに気の滅入る現象であったが、それよりも、髪が脱け始めるまでは自分を選ばれた白髪系の特権階級と思いこみ、そのくせ、髪が脱け始めたとたん、自分をこれまた少数の被害者らしく見たててしまう客観性の無さというものが、なんともいえず情けなく感じられたのである。(『再び女たちよ!』 P.349)


これより先の顛末は、ぜひ本で確認して頂きたく思います。以上、伊丹十三の『再び女たちよ!』より「脱毛」、受験生に捧げるはげましの話でした。

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